2003年05月13日(火) |
筑波大学付属盲学校の卒業生 |
河合純一さん パラリンピック、水泳金メダリスト 1975年4月 静岡県浜名郡舞阪町に生まれる 先天性ブドウ膜欠損症の為視力は右目のみ 3歳 右目の手術を受け、0.1の視力を取り戻す 5歳 水泳をはじめる 6歳 静岡県浜名郡舞阪町立舞阪小学校に入学 11歳 浜名地区西ブロック水泳大会 50m背泳 優勝 12歳 静岡県浜名郡舞阪町立舞阪小学校を卒業 静岡県浜名郡舞阪町立舞阪中学校に入学 森田先生のモデルである右二先生が赴任、社会科の担当及び水泳部の顧問になる 急速に右目の視力の低下を感じるようになる 15歳 中学3年時の担任が右二先生になり、 「十年後の私」という作文で教育者になりたいと書く。 右目の視力が完全に失われる 岐佐神社の祭りで初めて大太鼓を叩く 静岡県浜名郡舞阪町立舞阪中学校を卒業 筑波大付属盲学校高等部入学、寮生活に入る 点字と白杖の習得に苦労する 水泳部顧問の寺西先生と出会い、トレーニングに励むようになる 17歳 1992年 バルセロナ パラリンピック全盲部門出場(銀:2個、銅:3個) 18歳 筑波大付属盲学校高等部卒業 19歳 早稲田大学教育学部入学、下宿生活に入り、大学の点字会に入会する 寺西先生から引き続き指導を受ける 20歳 早稲田大学水泳部にお世話になるようになる 21歳 1996年 アトランタ パラリンピック全盲部門出場(金:2個、銀1個、銅1個) 22歳 教員採用試験を受験、教育実習を舞阪中学校で行う 早稲田大学を卒業 母校の舞阪中学に社会科の教師として着任 全盲では初めて1年生の副担任を担当 25歳 2000年 シドニー パラリンピック出場(金:2個、銀:3個) 2002年3月 シドニーの感激を分かちあった生徒たちを3年生担任として、送り出す 27歳 3度目の1年生の担任として引き続き舞阪中学にて教鞭をとる 2004年のアテネ・パラリンピック出場を目指す
年少時から続けていた水泳では過去3回のパラリンピックに出場、計14個のメダルを獲得。そして現在は、将来の夢であった教師として、母校である普通中学、舞阪中学校で教鞭をとる彼は、夢は実現するために並々ならぬ努力と情熱をそそいできたのです。
映画「夢追いかけて 付属盲学校でも映画の撮影がありました。 河合さんの生き様を描いた映画です、その上映予定案内 http://www.groove.jp/movies/yume/
福島智氏 1962年兵庫県生まれ。9歳で失明し18歳で失聴、全盲ろうとなる。 1983年東京都立大学に入学し、盲ろう者として日本ではじめての大学入学を果たす。 社会福祉法人全国盲ろう者協会理事 1991 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程(教育学)単位取得満期退学 1991〜93 日本学術振興会特別研究員 1991年 7月 東京都立大学助手 1996年12月 金沢大学助教授 2001年 4月 東京大学先端科学技術研究センターバリアフリー部門助教授
福島先生盲ろうについてこのように述べられています。 「盲ろう」は、見えなくて、同時に聞こえない状態です。これは主観的には外部世界とほとんど遮断されてしまったかのような感覚を与える状態です。よく用いる例として、テレビを使った説明があります。盲の状態を考えてみますと、テレビの画面を消して、スピーカーの音だけを頼りにテレビを見ているとき、それが盲の人の感覚に近いだろうと思います。音だけを頼りにテレビを見る(聞く)というと、あまり内容が分からないのではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうでもありません。ドラマなどはほぼストーリーが追えますし、ニュースや音楽番組などもよく分かります。ただ、ゴルフやサッカーなどのスポーツ中継は、分かりにくいといえるでしょう。 次にろうの人は、その逆ですね。テレビのスピーカーの音を消して、画面だけを見ている状態。これはトークショーなどは分かりづらいですが、スポーツ番組などを中心に、かなり内容は把握できますし、最近は字幕も増えてきました。 それでは盲ろうはどうか。これは、画面を消し、スピーカーの音も消した状態です。つまりテレビのスイッチを消してしまったのと全く同じ状態ですね。 「盲ろう」という障害がもたらす困難としては、コミュニケーション、移動、情報入手という三つの領域に渡る困難がある、といわれています。このうち私の意見では、コミュニケーションに関わる困難が最も深刻なダメージを与えるのではないか、と思っています。 今から20年前、私は盲の状態からほとんど突然、全盲ろうの状態になりました。そのとき、もっとも大変だったのが、このコミュニケーションでした。私が盲ろう者になって最もつらかったことは、他者とのコミュニケーションがきわめて困難となり、まるで、真空の宇宙空間に放り出されたような魂の孤独を味わったということです。 その後、「指点字」というコミュニケーション手段に出会い、他者とのコミュニケーションも徐々に回復して、私は生きる力を与えられるのですが、この盲ろうになって、いったんコミュニケーションが断絶してしまった、という体験は、私に対して非常に大きな影響を与えたと思います。つまり、見えなくて、聞こえない状態でも、他者とのコミュニケーションがあれば生きていけるな、という実感を持ったということと同時に、もしかするとその逆、つまり見えて、聞こえるけれど他者とのコミュニケーションができない、という状態は、生きていくうえで非常につらく、厳しい状況なのではないか、と考えるようになりました。 福島研究室/バリアフリープロジェクト http://www.bfs.rcast.u-tokyo.ac.jp/index.htm
タイム誌の記事には、「僕は宗教的信仰を特に持っているわけではありませんが、自分の存在は特別なものだと思うんです。なんか一種の使命みたいなものが課せられているんだ、と。」 そして、今後は米国にある盲聾者のためのヘレンケラー国立センターの日本版をつくることが目標ということで、「僕は逃げ出すことは出来ないんです。今、僕にとって代われる人は他にいません。だから僕は自分の使命を果たし続けます。」と書いていらっしゃった。
彼等の活躍が同じ障害を持った子供達にどれだけの希望を齎しているか計り知れません、又一般の僕達にも、厳しいく大変な社会で人のために使命感を持って仕事されている彼等の生き様が、ともすれば他に責任を転化したり、甘えている自分に「自己に厳しく他者に優しく」という生き方を教えてくれます。 僕は目が見えない、聞こえない、喋れない人達に人類の希望の光を見出すのです。
|