2003年03月29日(土) |
ユーロの原点、クーデンホーフ光子さん |
21世紀になって、僕達の価値観は変わるのでしょうか?戦乱の歴史だった20世紀の反省にたって戦争や飢餓の起らない世界を構築して世界的福祉を充実させようと、少なくてもヨーロッパの人達は考えてユーロを造ったと思います。 皆さんはこの方をご存知ですか? そうテレビや舞台で知られている"青山光子さん"を母に持つリヒアルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵です。
Shinchanは中学3年生の時、クーデンホール・カレルギー伯にお会いする事が出来ました。
ヨーロッパ統一思想の萌芽 欧州統合の構想を提起した思想家には、サン・ピエール、カント等が挙げられますが、中でもクーデンホフ・カレルギー伯は1923年に「汎・ヨーロッパ」と題する書物において平和的世界統一の第一段階としてのヨーロッパ統一を呼びかけ、第一次大戦の傷跡の残るヨーロッパに一つの希望を投げかけました。 この運動にはアインシュタイン、フロイト、リルケ、トーマス・マン、リヒャルト・シュトラウス、ブルーノ・ワルター他、欧州各国の政財界人、学者が名を連ね、銀行家が巨額の資金提供を行い、第1回会議が3年後ウイーンに24カ国、2,000人以上の代表を集めて開かれました。第3回会議で反ナチスを打ち出してゲシュタポに追われたカレルギー伯は、映画「カサブランカ」のモデル となるアメリカ亡命を成功させ、戦後、運動を再開して今日のECへの道のりを作り上げた。70年余の道のりもヨーロッパの殺戮の歴史から見ると瞬時にすぎない。歴史が指数関数的に動いた瞬間と捉えることも出来ますね。 母は日本人で一家は九州・佐賀の出身。伯は日本で生まれ、栄次郎の日本名をもっていました。
伯のお母さん黒い瞳の伯爵夫人 青山ミツコは,明治7年,東京牛込の町娘として生まれました。明治25年に当時のオーストリア,ハンガリー帝国の代理公使クーデンホーフ伯爵に見初められて国際結婚をいたします。公式の国際結婚第1号でした。ミツコは日本で二人の子どもを儲けて,さらにヨーロッパに渡って5人の子どもに恵まれます。 当時は,今とちがって日本なんて誰も知りません。東の小さな小さな国,日本から来た娘ということで,大伯爵家では蔑まれ排他されるという状況のなかで,彼女は本当に人々の気持ちを魅了してしまったのです。始めは反対していた親類たちも,みんなが「ミツコ。ミツコ」というようになりました。 確かに彼女はたいへん美しい人でした。しかし,それだけではなく教養がありました。書道を嗜み,歌を作り,身だしなみ,身のこなしなど,日本的な美しさに溢れていました。 日本的な美しさも卑屈になれば伝わらないけれども堂々としていれば伝わるということをミツコから感じました。そういうことから,日本の暮らしの文化をだいじに胸張って生きてきたミツコのことを考えるわけです。 クーデンホーフ伯爵が早く亡くなって,ミツコは7人の子どもを一人で育てます。領主としてのミツコは7人の子どもたちを教養あるヨーロッパ人として育て上げるのですが,心配な周りの親類や貴族たちは,寄ってたかって,ミツコを管理しょうとします。 ミツコは,その時,簪を手にとって「これ以上あなたたちが物事を言い出したら,これで刺しますわよ」と言ったそうです。それ以後,ミツコには誰も余分なことを言わなくなりました。それは言葉の強さではなくて,多分,言葉を発したミツコ自身の胸張っている強さ全体から出でいた強さだと思います。言葉というのは,イコール内容,生き方,心ですから,ミツコはそういう生き方をしたんだなあと感じました。 その後,ハンガリー帝国は第一次世界大戦の後,小国になってしまいます。ミツコの次男であるリヒャルトは,ヨーロッパは,今,手をつながなければ駄目になると,汎ヨーロッパ論を発表し多くの知識人に迎えられるのですが,ちょうど,ファシズムが台頭してきて潰されます。彼はアメリカに亡命するのですが,実は,映画『カラブランカ』の主人公のモデルがリヒャルトだと言われています。 ヨーロッパは第一次世界大戦を経てECとなり,EUに変わり,東京で生まれたリヒャルトの思いが半世紀かかってやっと実を結んだというわけです。リヒャルトのお母さんであるクーデンフォーフミツコの様子がまた鮮やかに甦ってきます。ミツコは,18歳で結婚して以後67歳で亡くなるまで一度も日本に帰ってきませんでした。 簪を持って「刺しますわよ」といった一言は,ほんとうに小さな言葉なのですけれど,その後ろにある,言葉の重さというか生き方に,私はほんとうに心を動かされました。 今,「国際」という言葉が人の口をついて出てきます。けれども,外国の人に日本の文化について,胸張って語れる人がどれ程いるのかと思います。ミツコの存在にあらためて考えさせられます。
Michael Coudenhove=Kalergi
<作家プロフィール> 1937年 クーデンホーフ光子の孫としてチェコのプラハに生まれる。 1945年 チェコからオーストリアに移る。グラーツの美術工芸学校を経て、ウィーン造形美術大学に進む。在学中に数多くの美術賞を総なめし、1964年に同大学を主席で卒業する。 1964年 エルンスト・フックスをはじめ、ウィーン幻想派を代表する巨匠たちからの助言を受け、同派の中心人物として活躍する。 1980年 美術界におけるオーストリア共和国芸術名誉十字勲章受賞。 1998年 芸術家組合 ザンクト・ルーカス=アントワープ賞を受賞。
彼女は、ゲランの香水『ミツコ』のモデルになったと言われています。 、光子はボヘミア地方のカレルギ家の領地にある、ロンスベルク城で生活を始めます。しかし、幸せは長く続かず、結婚生活10余年あまりで、ハインリッヒは急逝してしまいます。光子の苦労は大変なものだったようですが、彼女は夫の遺産を引き継ぎ、伯爵夫人として子供達をウィーンの名門学校に入学させ、社会的に活動を始めます。この頃からウィーンの社交界にも登場し、日露戦争で大国ロシアの負かした国の女性として注目を浴び、社交界の花形となりました。 やがて、パリでは「ミツコ」という香水が発売されました。
エピローグ ミツコのお墓はウィーン市内・シェーンブルン宮殿西側のHIETZING墓地にあります。なお、夫のクーデンホーフ伯爵は、チェコのロンスベルグに埋葬されています。ミツコは「夫の墓に埋葬してくれるように」と遺言しましたが、現在まで、かなえられていません。
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