新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2003年03月28日(金) 君死にたまうことなかれ

今、アメリカ、イギリス、イラクの父母、妻、夫、恋人達の思いはこの思いに尽きるのでしょう。

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親は刃(やいば)をにぎらせて  人を殺せと をしへ(教え)しや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

与謝野晶子
この詩は1904年の『明星』の9月号に発表された詩です。
旅順要塞を攻撃中の日本軍の総攻撃は失敗をくりかえし、多くの死傷者を出していました。その突破口を開くために日本軍は決死隊を組織します。弟がその決死隊に志願したらしい、という話を聞いてどうしようもない思いに駆られた晶子は、この詩を書いたようです。


 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり


君死にたまふことなかれ、 すめらみこと(皇尊)は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。


 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守(も)り
 安しときける大御代も  母のしら髪(が)は まさりぬる。


 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月(とつき)も添はで わかれたる
 少女(をとめ)ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

与謝野晶子の歌は一部右翼により嫌がらせを受けましたが、当時の明治政府は一切の干渉はしていません、これも昭和の政治家との大きな違いですね。
 当時、203高地に屍を重ねたのを解っていて志願した若者が多くいました、昭和の戦争と違いは、自国を守らなければならないという思いが強かったのでしょう、これはイラクの人達にも当てはまると思います、米国は日本の戦後復興を誇りに思っているのでしょう、宗教、イデオロギーの違いはこの21世紀になっても未だ解決されませんね、世紀の変わり目から戦争が繰り返し起っているのは人間の性なのでしょうか・・・。


イラスト、倉橋ルリ子さん
万葉集の中で、防人の歌が最も整理されているのが、二十巻です。

道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、
からまる君(きみ)を、はかれか行かむ
・・・丈部鳥(はせつかべのとり)と言う男が防人に行くときに、道端に咲く
「うまら(ノイバラ)」の先に絡(から)みつく豆のように、妻がしがみつき
「行かないで・・・」と願います。
しかし、丈部鳥は悲しみをこらえ防人に向かいます・・・

白波の、寄そる浜辺に、別れなば、
いともすべなみ、八度(やたび)袖(そで)振る
・・・私は防人の任に付かなければならない。
もし白い波が寄せる浜辺で別れてしまったら、悲しくていたたまれない。
だから、あなたに何度も何度も袖を振ります・・・

このように時代、国の違いを超えて、出征する兵士の思い、残された家族の思いは普遍的だと思います。




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