新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2003年03月10日(月) 打楽者日記「太鼓叩きを叩け!」

 来月のバレー団のための仮題「日本の音源風景」で作曲をしていて無性に田さんに会いたくなった。
田さんは和太鼓演奏グループ「鬼太鼓座(おんでこざ)」創設者で代表の田耕(でん・たがやす)さん(69)=本名田尻耕三さん。2001年4月11日交通事故によりお亡くなりになりました。(合掌)
僕の田さんとの出会いは指導していた先輩にくっ付いて佐渡まで行った時です、Shinchan二十才代の時です「おーなかなかスバシッコイ体型してるね」なんて言われました、あの頃は空手をやったりしていて一応逆三角形でした(ウッソー?)鬼太鼓の人達は一に走り二に走るそして太鼓を打つという修行をしていました、林英哲さんもいましたよ。
 「先生、何故走るのですか?」という僕の質問に「まだまだ芸がないから、今は走って練習するしかないんだよ」とおっしゃいました。
 僕の小鼓のお師匠さんは「芸のためなら〜も泣かす」という指導を身をもってやっいた方なので、田さんの言葉には驚きました。たしかに鬼太鼓座にある四尺の大太鼓を打つには、頑丈な足腰と長距離ランナーのような心臓が求められます。
打楽器を演奏するには力を抜くとずーと教わってきたので田さんが実行されている事に驚くと共に反発もしました。
 そして鬼太鼓と鼓童に分裂して田さんは佐渡から出ていきました。その後ヨーロッパで鼓童のメンバーと会ったり、太鼓の本を書いたり、京都のプロの太鼓グループ「祭衆」の音楽監督をしたり、和太鼓の世界との接点が増えました。
僕の書いた「現代和太鼓入門」
 
 その後何度がお会いしましたが、鬼太鼓座の中国遠征公演の前(五反田ユーポート)のコンサートの時、終わって田さんとお話した時「君頑張ってるね、今度内の若いもんを揉んでくれよ」と言われました、その時も[何故走るか?]という事を聞きたかったのですが、お客さんが多くて、話せませんでした。それが残念ながら・・・最後でした。
 今、僕の頭の中には四尺の大太鼓があり、能や歌舞伎囃子ではなく、大昔の猿楽のようであり、民謡の馬子唄の尺八、笛、すり鉦で表現したい・・・遠い子供の頃聞いた盆踊りの太鼓、笛、お神楽、チンドン屋、お祭りの屋台・・・これってあの五反田ユーポートで鬼太鼓座がやったことなのにと今気がつきました。





↑メッセージがあるよ、クリック


 < 過去  INDEX  未来 >


Shinchandazo [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加