2003年02月22日(土) |
ワルシャワにゆれる淡恋一章 |
Pomnik Chopina '73年パリ高等音楽院の友人と東欧への旅に出ました、もちろん列車の旅です、蒸気機関車にはめぐり合えませんでしたが、レトロな車両に多国語、パヒュームの臭い等、今でもシャネル19番などの香りは、あの東欧の旅を想い浮かべます。
最初の訪問地東ベルリンです。 街は本当にゴミなんかなく、美しかったですが、ベルリンの壁を見て悲しくなりました。その時まさか東西が統一されるとは夢にも思いませんでした。美術館を見学して、友人はライプツィヒに行き、僕はチェコスロバキアのプラハに向かいました、そしてポーランドのワルシャワで落ち会う約束をして別れました。
目的はワルシャワ高等音楽院(現在フレデリック・ショパン音楽院)とアウシュビッツを訪れる事です。ホテルには泊まらないでパリ音楽院の斡旋でワルシャワ高等音楽院の宿舎に泊めてもらいました。 オーケストラの練習でちょうどショパンのピアノコンチェルト第二番をやっていました、その音色の美しさはパリのオーケストラとは違います、周波数を少し低くとっているようでした。ショパンコンクールを受ける予定の学生が熱心に聞いていました。 初めてきました、アウシュビッツ、おびただしい入れ歯、鞄、焼却炉、処刑した壁等、この時のショックで食べ物も喉を通らなくなり、旧市街から街の中をウロウロ歩き回ったのです。 するとある建物の三階あたりからそれはそれは美しい曲が聞こえてきました、ショパンの曲であるとは思いましたが初めて聞くメロディーで、アウシュビッツの自問・・・何故理知的なドイツ人があのような蛮行を行ったのか?・・・ しばらくその建物の下に佇んでいましたが、大きなドアを押して、階段をあがります、するとその調べ(練習しているので繰り返し引いている)の聞こえるドアの前に立ちました。 コンコン・・・「ポーランド語」・・・僕は日本人でパリで音楽を勉強しています、今あなたが練習されていた曲名を教えて下さい・・・と英語で話しました。 するとドアが開き栗色の長い髪の少女がた流暢な英語で・・・日本から?・・ミスヒロコ・ナカムラを知っていますか?・・・どうぞお入りになって・・・。 不躾な訪問をお詫びして、ポーランドに来たまでのことを話ました。彼女は目を輝かせて、僕の下手な英語を一生懸命に聞いてくれました。 「今、練習している曲はアダージョCis-mollです、今度音楽院で弾くのです」 「それはワルシャワ高等音楽院でですか?」 「そうです」 「僕は今あなたの学校の宿舎に泊まっているのですよ、そしておとといはコンチェルトを聞きましたよ」 「私も居ましたあ!失礼ソーニャと言います」「僕は・・・・です寄寓ですね・・お願いですもう一度聞かせて下さい」
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