2004.9.16
オンラインゲームは、知られているのかどうか知らないが、ほとんどは日本で開発されたものではない。その多くは韓国で開発されたものだ。
このオンラインゲームの普及に関しては、韓国人のPCに対する感覚が大きく影響しているらしい。日本では、ゲームと言えば、ファミコンやプレイステーションを代表とするゲーム機が主流だった。しかし、韓国では日本文化に対する規制や違法コピーの蔓延が多かったために、そうはならなかった。コピーが多すぎて、ソフトウェアの販売で採算が取れなかったらしいのだ。だから、韓国でゲームと言うと、いきなりオンラインゲームということになったのだ。なぜなら、オンラインゲームはサーバへの接続に対して課金しているのが一般的で、クライアントプログラムは無料の場合がほとんどだからだ。ちなみに、オンラインゲームでも日本製のFFXIの場合はクライアントプログラムが有料だ。だから僕の好きなタイプであるにも関わらず、食指が動かなかったのだが。
このような歴史的経緯があるため、韓国ではPCを娯楽用のツールと捉える人が日本以上に多いようだ。日本では、情報処理のための機械という見方がまだまだ多いように感じる。だからこそ、PCでゲームをすることに違和感を感じているような意見が聞かれるのだろう。どちらがいいとは言えないが、PCをおもちゃとして見る感覚は興味深いものがある。
日本でもそれに近い状況になりつつあるようだ。家庭にPCがどんどん普及しているが、低年齢の子どもたちが、PCを情報処理の機械として見るとは思えない。その価値が分かるとも思えないし、価値を理解したとしても用途がない。僕はどちらかと言えばPCを情報処理のための機械として見る立場だが、僕のような考え方は、いずれ時代遅れとして駆逐されていくだろう。PCの操作を当然のものとして身につけた世代が、これから多く現れてくるはずだ。それは、韓国の流れに追随していると言えるのかもしれない。
そうなってくると、案外PCは消えないのかもしれない。PCは他の情報機器と比較して操作が圧倒的に面倒だ。PCはかなり汎用性のある機械だが、汎用性は煩雑さに比例する。なんでもできる機械は、それだけ操作が面倒なのだ。だからこれからはより特化した機械に取って代わられるという意見を聞いたし、僕もそんな流れになるのではないかと思っていた。だが、上に挙げたような流れがあることを考えると、そうとも言い切れない気がする。煩雑な操作を煩雑と思わずに使いこなせる世代が台頭してくれば、まだまだPCは生き残れるかもしれないのだ。だいたい、煩雑さを考えれば、言葉や文字はPCのはるか上を行く。言語を習得する難しさは、PC操作の習得の比ではない。しかしコミュニケーションに必須だからこそ、人間は言語を使いこなしているのだ。会話はともかく、読み書きは後天的なものだろう。PCもそう言った基本的な技術となっていくのかもしれない。