Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年09月13日(月) 生活のリズム

とりあえず毎日の生活のリズムを作っていこうということで、まずは毎日日記を書くことにした。昔は何の苦にも感じなかったのに、どうして今は、それがきついと感じるのだろうか。

きついと言えば、最近今までにも増して運動不足なので、昼食を食べに行くときかなり速めに歩いてみた。距離は1.5キロ程度のはずだ。その帰り道、驚くべきことに足が筋肉痛になってしまったのだ。たったそれだけの距離で筋肉痛になってしまうとは。これは一つ、意識して運動するようにしなければ、日常の生活が危ういかもしれない。

最近、いろいろなニュースや他の人の日記を見ているとつくづく思うのだが、社会人というのは多かれ少なかれロールプレイングをしているような気がする。ゲームの意味ではなく、本来の「役割を演じる」意味のロールプレイングだ。社会人はそれぞれ、何らかの職について働いているわけだが、それとは別にプライベートの部分は必ずある。どんな会社人間だって、24時間会社員をやっているわけではないだろう。ゲームで必死に砦を取るための戦略を立てて、みんなに通知して、出席を取って…と言った作業と現実の仕事と、やっていることにどれほどの差異があろうか。もっとも違うのはその意味合いだ。同じような作業をしていても、実際にはそれにともなって責任があるだろうし、対価もある。職種によっては日本全体や世界全体に影響を与えることだってある。ただ、本質的にはゲームも現実も変わらないのではないだろうか。その影響する範囲が違うだけだし、ゲームだって生身の人間がやっている以上、多少は社会に影響することもあるだろう。

どちらにしても僕たちはゲームなり社会なりの決められた枠組みの中で、それぞれの役割を演じているわけだ。ただそれだけのことに、一体どんな価値を見出せばいいのだろう。食べるためだとか人のためだとか、ある程度の意味を持たせることはできるだろう。しかし、社会の枠組みの中で仕事をすることで、自己実現や満足を得るということが果たしてできるのだろうか。

それができないと考えると、また好きではない考えが頭をもたげてくる。すなわち、社会の枠組みを破壊することで満足を得るという考え方だ。これは犯罪行為には限らない。たとえば新しい会社を立ち上げることだって、その業界の枠組みを破壊する行為となるわけだ。だが、そうやって既存のものを破壊するしか、満足のための手段はないのだろうか。だからいつの世も争いは絶えず、成功者は常に敗北者を足蹴にしているのだろうか。

いや、成功する人間は好戦的であるとも考えられる。好戦的な人間と厭戦的な人間がいた場合、厭戦的な人間が逃げ切れることは少なく、ほとんどの場合は争いになるだろう。争いを避けることができるのは、厭戦的な人間が世の多くを占めるときだけだ。例えばある業界だとか、決まった人間関係の範囲であれば、この人数構成が変わってくることは用意にあり得る。その場合、争いとなれば、好戦的な人間が勝利することになるだろう。その結果、好戦的な人間が厭戦的な人間を下し、世に大きな影響力を行使するようになるのではないだろうか。大きい社会であれ小さい社会であれ、構成する人間のほとんどが争いを避けようとしない限り争いは起こり、その結果として争いを好まない人間が敗北する。

この考えで行けば、争いではなく日々の生活の中に満足や幸せを見出した人間がいたとしても、それは世の流れによって容易に破壊され得ることになる。しかし僕は、争いによって誰かを敗北させ、勝者として君臨したいとは思わない。それ以前に、おそらくはそれほどの力を持っていないだろう。それでは、僕はいったいどうすればいいのだろう。争いが避けられないのなら争いに勝利するだけの力を得なければならないのだろうか。この手で誰かに屈辱を与えることは嫌だという考えは甘いのだろうか。争いは避けるべきだ。それだけは間違いない。今の僕に、争って勝利することを評価する価値観はない。…いや、本当にないのか。争いは嫌いだが、勝利するのは嬉しいという矛盾はないのか。あるのかもしれない。普段の生活で頭をもたげることはなくても、ゲームで戦いとなれば勝ちたくなる。…いや、それは勝つことがゲームの目的だからだ。勝利は目的達成のための手段で、勝利そのものに価値を見出しているわけではないはずだ。

何か目的を持って、それを達成すればきっと満足できるはずだ。社会の枠組みの中で、達成すべき目的を見出さなければならないのだ。しかし、今さら何があると言うのだろう。多くの職に憧れはある。しかし、長く続けていけば底は見える。いくら続けても分からないという人はいるが、それは業界の中だけで通じることであって普遍的な価値観ではない。いや、普遍的かどうかは関係ない。満足するかどうかは個人の問題だ。どのような世界であれ、自分が十分に没頭でき、目的達成のために全力を尽くす価値があると思えればそれでいいではないか。問題は、それが僕にとって何なのかということだ。

僕はずっとPCに興味を抱いてきた。ゲームが好きだった。では、PCやゲームの世界にその目標があるのか。そうは思えない。すでに底が見えているような気がする。それではシステムエンジニアになるのか。いや、企業社会の枠組みは、とてもじゃないが好きにはなれない。なぜなら、企業こそは勝利を最大の目標としているからだ。資本主義という枠組みは勝利を目標としなければならない。他者を圧倒することがその大きな手段となる世界だ。この日本という国にいる以上資本主義からは逃れることができない。しかし、できるだけ身を遠ざけておきたいというのが本音だ。

満足すること、幸せになること、そのための道は、全力を尽くす価値のあることを見つけるだけではないのかもしれない。守るべき大切なものがあって、そのために全力を尽くすのも一つの生き方だ。それだけではない。そのときどきでもっともいいと思えることを、その時々で追求することだって生き方の一つだ。もっと考える必要がありそうだ。

僕は、安定が好きだ。争いは嫌いだ。目標を定めるのは苦手だ。単純な作業は得意だ。生産的な仕事は苦手だ。多くの情報を編集して一つの形にまとめ上げるのがもっとも得意だ。単純に考えれば編集者か。それではあまりに短絡的だろうか。人と話すのは好きだ。おそらく敵意を与えずに話すことができる。積極的なコミュニケーションは得意じゃないかもしれない。そうだ。考えるべきだ。できないことをやろうとするのではなく、得意とすること、できることを考えていくべきなのだ。それから、選んだ道を歩むのに不足している部分を補うのだ。あらゆる面で完璧な人間などいるはずがない。ひたすら安定を追及するにしても、何らかの目標を追うにしても、あるいは日々の生活の中で楽しいことを選び取っていくにしても、それぞれに必要なことがあるはずなのだ。自分にとってなるべく楽な道を選ぶべきだ。その方が自分を生かして、容易に欠点を補って生きていけるはずだからだ。

楽な方へ流れること、安易な道を選ぶことは罪ではない。例え社会が罪だと言おうとも、友人が罪だと言おうとも、自分自身で楽な選択を切り外してしまっては、もっとも幸せかもしれない選択を失いかねないではないか。楽な道だから幸せにはなれないなんて、誰が決めたのだ。国家にとっては困るだろう。社会にとっても困るだろう。多くの人は、自分以外の人が苦しい労働をして、自分に奉仕してもらったほうがいいと感じているに決まっている。だからと言って、進んで厳しい道を選ぶ必要などないのだ。ただ、自分が進もうとする道を歩むために必要であれば、苦しいことを避けるべきではないだけだ。楽しいことは最大限、苦しいことは最小限にすべきなのだ。当然ではないか。苦しくて幸せだと思う人間なんて、いるはずがないのだ。苦しいことを幸せだと思う人間は、苦しいことを成し遂げた先のことを思うから幸せなのだ。それは苦しみを幸せだと感じることとは違う。苦しみは過程であり、苦しむことが目的ではないのだ。目標もなく苦しむだけで幸せになることなど、絶対にないのだ。


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