2003.05.19 (Mon) 1:56:29
世の中には、特に幸せな人も不幸せな人もいないと言う。幸せに見える人もどこかに不幸な部分を抱えているし、不幸のどん底に落ちているような人でも幸せの種は持っているのだそうだ。
本当だろうか。不幸な人はどこまでも不幸だし、本当に幸せなら、不幸など抱えたりはしないのではないだろうか。
僕は物質的にも恵まれているし、精神的にも常に余裕のある日々を送っている。余裕がありすぎて何とかしないと、という気になれないが、それはつまり、現状が十分幸せであって、改善の余地がないということだ。将来はどうなるか分からないという不安はあるが、今は十分すぎるほどに幸せだ。もちろんこれは僕の力で成されたものではない。両親を初めとした多くの人の努力によって、僕という人間が幸せな生活を送ることができるのだ。先人たちはみな、豊かで満ち足りた生活を求めて努力を重ねてきた。今、僕が享受している生活は、その理想を具現化したものに他ならない。
食うに困らないなど当然だ。欲しいものがあれば大抵は、たいした努力もなしに手に入る。多くのものにたいして値段を下げる努力がなされ、多くのものの値段が、実際に下がっている。技術は加速しながら進歩を繰り返し、今や、新発明のものが1年もたてば手元に普通に届く。青色発光ダイオードは世紀の大発明といわれたにもかかわらず、今や珍しくも何ともない。LEDと言えば、すべての可視光を表現できるのが当たり前なのだ。
僕に便利な生活を提供する技術は進歩し続ける。生活の環境は、歴史上類を見ないほどに整備されている。今までそのような生活を享受してきた人間はみな、その立場を維持するために多大な努力を強いられてきた。しかし僕は違う。この生活が当たり前であり、別段の努力など必要としない。そういう世の中なのだ。
だから僕は、幸せなのだと思う。幸せとは何かということをあえて考えずにいるが、一般的な感覚で言えば、そういうことになるのではないだろうか。
ああ、もう遅い。早く寝なければ…。
2003.05.19 (Mon) 2:50:44