2003.06.29 (Sun) 15:19:32
物事の判断。人として生活していく以上、避けては通れないことだ。昨日もそんなことを書いた気がするが。
判断は結局のところ、何に行き着くか。人間の感情は、最初は快と不快から始まり、そこから分化すると言う。判断も、結局のところそうではないのか。快と不快では判断の結論としてふさわしくないのであれば、好きか嫌いか、と言ってしまえばいい。良いか悪いか、でもいい。
いろいろものを考えるが、結局、それが好きか嫌いかがすべてではないだろうか。逆に言えば、判断をしてみて本当にそれでいいのかと迷ったとき、自分がそれを好きになれるか、という基準で考えれば後悔しないのではないか。
でも、きっとそんなのは相対的なものだ。たとえば僕は、これから大学を卒業して新しい道を歩むことになるだろう。もし大学に残るにしても、ずっと学生でいることはできない。だが、僕はずっと学生でいたい。しかし、現実的にそれは不可能だ。ではどうすべきか。
僕はPCが好きだ。コンピュータの操作が好きである。だから、どのような道を進むのであれ、コンピュータから離れることはすべきでないだろう。はっきり言って、コンピュータから離れないのであれば、どの道を進んでもいい。しかし、たとえばシステムエンジニアであれば、コンピュータシステムの管理を中心として行うことになるはずだ。設計や実装も重要だろうが、これからは既存のシステムをいかに管理していくかという問題が現れてくるはずだ。もちろんそれは、今までに多くのシステムが作られているからである。
つまり、好きは好きでも、相対的に優位な判断をすべきだろう。このときに重要なのが、物事に優先順位をつけるということだ。普段から、自分にとって重要なのは何か、ということを常に考えておくのだ。そして、何か迷ったときは、自分にとって最も重要なことを優先する。最も重要なことのために、それ以外のことを捨てるのだ。もちろん、程度の問題はあるが。それほど重要なことでなくても、何とかなるなら何とかした方がいいことも多いだろう。
きっと、これは今の社会を生きるのに適している。自分が一番好きなのはこれで、二番目はこれで…、としておけば、いざと言うときに悩まずにすむ。しかし…。
僕は、どうもそういう考え方が好きになれない。好きかどうかなんて、感情的、感覚的なものだ。それに優先順位なんてつけられない。そう思ってしまう。でも、それでは通用しないのだ。きっとこの先、残酷な二者択一を迫られる。どうすればいいのだろうか。
好きなものを好きと言って、自分の好きなことをして生きる。それが、幸せなのかも知れない。だとすると、今の社会は、ほとんどの人が幸せになれない世界なのだろうな。
2003.06.29 (Sun) 15:31:08