2003年02月12日(水) |
優れたものを見つけだせ |
2003.02.13 (Thu) 1:01 Viewer: 15 Access: 6072 Letters: 2643 この日は、前半の更新をしていたから、 見てくれた人が少し増えたようだ。 前回更新してから今日までに、 延べ150人の人が見に来てくれたようだ。 …僕も偉くなったものだ。 もっとも、150人のうち、 自分で踏んだ分はかなりの数になるとは思うが。
今日は、試験があった。 応用化学だ。 結果としてはあまりできなかったのだが、 出席点で下駄を履かせてくれる上、 220点満点の試験で 60点取れば可なのだから 問題はないと思う。 27.2%を答えられればよいのだ。
明日は知識情報処理。 だが、持ち込みがOKだったかどうかすら覚えていない。 完全にやる気などないのだ。 こんなことで大丈夫なのだろうか。 気管支炎になってしまった友人と比べればマシだとは思うが…。 本当につらそうで、 今日の試験もさっさと終わらせて帰ってしまった。 まともにやれば時間ぎりぎりまでかかりそうな試験だったのだが、 単位を確保できるところまで書いて、 あとは帰ってしまったのだろう。
友人に言うと嘘つき呼ばわりされるのだが、 僕は、プラス思考を身上としている。 それは、1つには単にそちらの方がよいと思うからだし、 それ以外にも、昨日の分に書いたように、 現状に対して不満を述べる必要がまったくないという要因も挙げられる。
だいたい、不満を述べることにいったいなんの意味があるのだろう? ちょっと前にも書いたような気がするが、 改めて思ってしまう。 確かに、不満を述べて、 代替案を示し、その検討を行えば、 現状をより良くする手だてになるかも知れない。 しかし、それは今まで多くの人が取り組んできたことで、 今の社会はその多くの人の苦労が 実を結んだものだと、僕は思う。 完璧とは言わないが、かなり恵まれていることは否定のしようがないと思う。 いったい、今のこの状況の、なにを否定しろと言うのだ?
そうであれば、 現状の良い点を見つけだして、 それを評価することの方が、よほど良いと思うのだ。 その方が、精神衛生的にもずっといいと思う。 人にしろ社会にしろ、 悪いところを見つけだしてそれを糾弾する態度は、 とても美しいとは思えない。 その点、優れた点、見るべき点を見つけだし、 それを指摘し、評価することは、極めて有意義だと思う。 もちろん、評価すること自体有意義だし、 そのようなことをする人が多くないことも価値を高めている。 これらの評価によって、良い点が周知され、 さらなる改善が図りやすくなることだろう。 悪い点の指摘と違って、このような指摘は 無責任な批判にはなり得ない。 なぜなら、悪い点を認識しただけではなんにもならないが、 良い点を認識すれば、それを維持するだけで価値があるからだ。 もちろん、維持だけするという保守的な態度はなにも生み出さないが、 それでも、価値のあることを正しく認識することは重要だと思う。 認識すれば、失うことがなくなるからだ。 悪い点ばかりに目を付けて、 先人たちが苦労の末に築き上げた今の世界を みすみす失ってしまうわけにはいかないだろう。 正しい点は、いつまでも評価しなければならない。 忘れてしまったら、それはもうないのと同じだ。
眠いと、どうも抽象的になる。 抽象的な文章は分かりづらいと、 分かっているつもりなのだが…。
大学の講義を聞いているとよく思うのだが、 抽象的な話になるのは、 本質を理解していない証拠なのかも知れない。 本当に物事を理解しているのならば、 その物事に関する具体的なことをいくらでも言えるはずだ。 いくらでも例を挙げ、それに対して説明を加えることができるはずだ。 僕にとある先輩がいるが、 その人は、自分の理解したことを、 僕に分かりやすく示してくれた。 そうすることで、自分自身の理解も図っていたのだ。 それで僕が理解できなかった場合、 僕の能力の不足ということもありうるが、 大概は、それはその先輩の理解が不足している、ということが言えるのだ。
その点、僕はプログラムは好きだ。 プログラムは、完全に論理的で これ以上ないほど具体的な形で、 その人間の理解が示される。 その内容はコンピュータという「偉大なるバカ」にも 認識可能であり、 同一のコードは必ず同一の処理を示す。 そこに感情の入る余地はない。 人間が願おうが願うまいが、 コンピュータはそこに示されたコードのみを忠実に実行する。
このような論理的なことを好む一方で 感情の重要性を、認識しないわけにはいかないと感じている。 人間のすべての行動は感情に基づくもので、 極言すれば、快を求め、不快を避けるものだ。 どのような人間でも、この部分に違いはないだろう。 あえて不快な行動をとるとすれば、 それは、その後に快が存在する。もしくは、より大きな不快が存在するのだろう。
だが、今さらどうしようもない。 僕には感情にまかせて行動するような発想はない。 だから、他者に頼るのだ。 他の人は、それを持っている。 僕は、それを見て、真似をして、 なんとか意志を持とうと思っているのだ。 だが、所詮は偽りであり、 障害を乗り越えられるものではない。
でも、きっと何とかなるだろう。 確かに、困難を乗り越える強い意志はない。 しかし、人間は時には敗北し、屈するものだ。 だからと言って、その人の人生が終わるわけではないし、 糧になることだってある。 そこからなにが得られるか。 そうなったら、それを考えればいい。
直接関係ないが、 コーヒーを飲むと眠くならないのは、 プラス思考の賜なのではないかと思うことがある。 効くと思っているから効くのだ。 どんな人であれ、カフェインで眠くならないなんて嘘だと思っていたら なかなか効果を現すものではないだろう。 しかし、逆ならば話は別だ。 きっと僕のように、飲んで5分で効果を発揮し 半日でもなんでも、効果は持続することだろう。 これだって、1つの意志なのかも知れない。 苦しみに耐えて進む強さがなくても、 その場から良い点を見つけだして、そちらへ進むことができれば 道は開けるものなのかも知れない。
結局のところ、 人はどうあっても進まなければならないのだ。 人生の歩みを止めるものは、そう多くない。 自分で自分の命を絶ちきる人もいるが、 それは歩みを止めたのではなく、 自分で自分を、殺しているのだ。 どうあっても、進むことはできるだろう。 時間が進む限り、人はきっと、 どこかへ向かって進んでいるのだ。 そして、どこへ行ってもムダなどないのだと思う。 …きっと。そう信じたい。
2003.02.13 (Thu) 1:40
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