2002年11月23日(土) |
休息は無為なるものか |
2002/11/23 22:31 Words: 5235 Lines: 290 一昨日導入したばかりだと言うのに、 アクセス解析、サービス主体が変わるらしい。 Infoseekと統合されるらしい。
僕はもともとInfoseekに登録しているので、 そういう意味では便利になっていいのだが、 それ以外の利点はまったくない。
上にAccess Analysisという風にして、 アクセス解析結果を、この日記を読みに来た人にも 見られるようにしているが、このサービスは使えなくなるらしい。 また、過去ログの保管期間が短くなったり、 複数ページの解析ができなくなったり、 いろいろデメリットがある。 使いたければ金を払え、ということだそうだ。 さすがに、金さえ出せば、 かなりサービスは良くなるようだが。
今日は、14時頃に起きて、 ゲームだけやって、1日を終わっている。 かなり内容のない1日だ。 しかし、こうやってキーを叩いていると、 だいぶ気分が違うような気がする。 やはり、昨日は結構疲れていたようだ。 実際、睡眠時間も10時間を超えているし…。 まあ、休息がとれたということで、良しとするか。 レポートが出ているから、明日はレポートをやらなければ。
あー、ホントに書くことないな…。 普段はこういうとき、なにを書いてたっけ…?
ということで、10月下旬の日記を見てみた。 だいたい1ヶ月前のものだ。 別にいつでも良かったのだが、 アクセス解析を見たら、10月29日の日記を検索してきている人がいたので、 その日を使うことにしたのだ。
1ヶ月なんてアッと言う間だと思っていたが、 こうやって日記を見てみると、 そのときと今の気分が、全然違うのが分かる。 やはり、毎日過ごしていくうちに、 少しずつ変わっていくものらしい。
まあ、それはそれとして、 休みの日に、特に書くことがなかったりすると、 さすがにどんな気分の日でも、ほとんどなにも載せていない。 いくら長文が好きでも、なにも書けないものはどうしようもないようだ。
なにも書くことがないので、音声認識について。 と言っても、PCによる音声認識ではなく、 僕個人の音声認識だ。
僕は、人の言っていることを聞き取れないことが多い。 耳が悪いのかとずっと思っていたが、 耳を澄ましているとかなり細かい音まで聞こえるし、 聴力検査でも問題はなかった。 少なくとも、難聴ではないようだ。
そう考えて気をつけて聞いてみると、 ちゃんと聞こえているのに、その意味を把握できていないことに気づいた。 音として聞こえていても、言葉として認識できていないのだ。 ある程度大きな声じゃないと、なにを言っているのか分からない。 彼女が言っていることを聞き取れないこともあるので、 集中力の問題ではないだろう。
原因を考えてみたのだが、 これは、僕の幼少期の人間関係に起因しているのかも知れない。
僕は、今ではそうでもないが、 昔は、人間関係というものが総じて大嫌いだった。 そんなにはっきり考えていたわけではないが、 なにをどうしていいのかよく分からなかったからだろう。 それから、母によると幼稚園にいたころは結構いじめられていたらしい。 ほとんど記憶に残っていないことから、 封印してしまいたくなるほどひどかったとも考えられる。 ここから、知らない人を恐怖してしまったとしても 不思議はないだろう。
前から結構書いているが、 僕はコミュニケーションというものを、Internetを通して学んだ。 Internetでは、純粋にコミュニケーションを求める人間の姿が見える。 逆に言えば、それ以外の面はなにも見えないと言ってもいい。 コミュニケーションに限らず、Internetを通した情報は、 現実の情報と比較して、情報量が極端に小さい。 そのため、余計なことに惑わされず、そのものを見やすいのだ。
ということで、Internetを本格的に使い始めるまでは、 積極的な人間関係なんて考えられなかった。 今でも、道ばたで知らない人に声をかけたりするなんて信じられない。 まあ、これは、 人間関係の積極性がどうのこうのとか言う前に、 非常識だからやめた方がいいと思うのだが。
人間関係に興味がなかったから、 人の話を聞こうとも思わなかった。 家族の話は割と良く聞いていたが、 彼らとは、雑音のない静かな家の中で話すことが多かったし、 父はともかく、母の声はいつもヤケに大きかった。 だから、聞くのに困ったことなどないのだ。 弟の言っていることが分からなくて困ったことはたびたびあったが、 今ほどではない。
そんな状況だったから、 人の話を聞き取れなくなってしまったのかも知れない。 今は、この辺の考え方はだいぶ変わってきている。 人の話というのは僕にとって、かなり興味深い情報になっている。 話の内容それ自体もあるし、 そのときの彼らの感情、仕草、その他から、 実に様々なことを読みとることができる。 話を聞くことで、話以外の情報も読みとれるのだ。
話をするだけでその相手の性格が分かってくるのは 常識なのかも知れないが、 僕にとって、こういう感覚はつい最近 分かるようになったことなので、実に新鮮なのだ。 目を見ただけで考えが読めるなんて、 超能力者でなければ不可能だと思っていた。 今でもそんなことはできないが、 そういう感覚は、何となく分かってきた気がする。
いろいろな人と話をすると、 それだけで世界が大きく広がる。 事実は1つしかなくても、それに対する考え方は無数にある。 新しい考え方を知れば、 なにも新しい事実がなくても、いろいろなものを他の視点で見られるようになる。
そういう意味では、 人の話だけではなく、本もおもしろい。 こちらの意志とは関係なく、ただひたすら 著者の書きたいことが書かれているだけだから、 自分に合わない本というのはどうしようもないが、 初めから自分の求めるようなことが書かれたような本だった場合、 その価値は人から聞いたことと比べても、 勝るとも劣らないと言っていい。
ただ、新しいことを知っていくかどうかということとは別にして、 記憶というのは常に消え続ける。 新しいことを知ったと新鮮な感動があったとしても、 それはもう、初めてのことではない。 これまでに、似たような経験を何度もしてきていて、 僕にとって、決定的に重要なことではない。 その場合、月日が流れると、あとからあとから、 どんどん忘れて行ってしまうのだ。 だから、何か本を読んだり、おもしろいことを聞いたりしたときは、 なるべくこの日記に書き留めるようにしている。 そうすれば、例え忘れたとしても、 思い出すきっかけになるかも知れない。
だから、決定的に重要なことは、 この日記には書かない。 書きたくなったら書くこともあるが、 ほとんどの場合、それほど重要なことだったら書かない。 なぜなら、それほど重要なことなら、 記録しなくても、忘れたりはしないので、問題はないと考えられるからだ。 ただ、詳細まで覚えておきたいときは、 どんなに重要なことでも書くことにしている。 まあ、そんな重要なこと、普段からあるものではないが。
やはり、夜遅くなってくると 調子が良くなってくる。 いつものパターンだが、何とかした方がいいような気がする。 どうしたら、昼に調子が良くなるようになるのだろうか。
話はまったく変わるが、 掲示板などに、「ご教授ください」などと載っていることがある。 どうでもいいことではあるのだが、 この言葉、大学の肩書きになっていることからも分かるように、 専門的な学問、技術を教える場合に使う言葉だ。 掲示板でちょっとものを尋ねる、程度で使うのは ちょっと変ではないだろうか。 何度も言うようにどうでもいいことなのだが、 何となく気になった…。
まあ、言葉というのは常に移り変わるものだ。 誰かが定義しているわけではないのだから、 多数が使えば、言葉そのものがそれに従って変化する。 ある意味では、プログラミング言語ですらそうかも知れない。 まあ、プログラミング言語の場合は、 プログラマの要望に応じた、明示的な変化なのだが。 例えば、CがC++になり、VC++になり、C#になっているように、だ。 だがこれも、一応は多くの人の意志によって変化している。
まあ、プログラミング言語はどうでもいいとして、 自然言語は、使う人によってその形を少しずつ変える。 その中で使う人が増えてくれば、 言葉全体がその方向に流れていく。 考えてみれば、このような言葉、というのもおもしろいものだ…。 とすると、ら抜き言葉などをあまり神経質にとらえても あまり意味はないのかも知れない。 文法が間違っていると言ったって、 10年後にはその文法が正しい日本語とされるようになっているかも知れないのだ。 要は、話す方と聞く方が、双方で同じ意味だと思っていればいいのだ。
ちょっと強引なつなぎだが、 ここから慣習について書こうと思う。 人々の生活や考え方、メディアの性質などの変化によって、 言葉ですら、短期間に大きく変化している。 さすがに文法の変化は少ないが、 単語は日々移り変わっている。 何年か前の流行語は、すでに今では死語となりつつある。 「死語」という言葉そのものも、流行語だったと聞いたことがある。 さすがに「死語」は死語にはならないと思うが。 辞書を引いたのだが、本来死語とは、 使われなくなった言語を指すそうだ。 古代ギリシア語、ラテン語などが該当するらしい。 単語の意味では、死語ではなく廃語と言うらしい。
日本語ですらこれほど大きく変わっている。 ましてやその日本語が示す日々の生活や、 社会全体の流れ、その他は、より大きく変化している。 特に昨今は、グローバリゼーションのかけ声の下、 より一層、その変化は高速になっている。 まあ、グローバリゼーションに反対する声もあるが、 全体として、この流れは止められるものではないだろう。 人も物も、そして情報も、 昔とは比べ物にならないくらい、簡単に国境を越えられるようになった。 人々の考え方も、遠くない未来、 この物的な現状に追いついてくるだろう。 そういう意味では、物や人、情報を動かす技術が 時代を拓いたと言えるのかも知れない。
その中で、いつまでも変わらない慣習がある。 俗に言う、冠婚葬祭だ。 まあ、冠というのは元服のことだから さすがに変わったと言ってもいいし、 祭だってだいぶ変わっているから、問題はないだろう。 祭は逆に、消えていくのが問題かも知れない。
問題は、結婚式と葬式だ。 この2つそのものはいいとして、それに付随する伝統が問題なのだ。 結婚式は、だいたいの場合、2人が結婚してしまったらそれで終わりだから、 尋常でないお金を取られるが、まだ問題は少ないと言えるだろう。 ちなみに僕は、万が一結婚したとしても、 結婚式はやりたくないと思っている。 …まあ、妻になる人がやりたいと言ったら、それに従うとは思うが。 結婚すると言って、わざわざ友人知人を時間的に拘束して、 お金まで出させて、無理矢理祝わせるなんて真っ平だ。 少なくとも僕だったら、そうまでされて素直に祝福なんてできない。
もっとも問題なのは、葬式とそれに付随する一連の儀式だ。 詳しいことは知らないが、一回忌と三回忌と七回忌だっただろうか。 これだけあるということは、要するにこれだけの時間、拘束されるということだ。 今まで問題意識を持ったことなどなかったが、 先輩がこの法事に行かされることになったと言っていて、 これはかなり大きな問題だと思った。 なんと言っても、拘束される時間が半端ではない。 あらかじめ日程が決まっているとは言え、 親戚が死んだ日なんて覚えているわけではないので、 ほとんど突発的に拘束されるのだ。
日本人は無宗教のくせに、 このような慣習には妙にこだわる。 人は、死んでしまえばただの肉片であり、 焼いてしまえばそれすら残らない。 そんなものに、どれほどの価値があるというのだろう? 人が死んだら、あとはその業績で評価されるべきだ。 それを評価するのは、一般の人々であるべきだ。 親戚が死んだところで、その人がどんな人間であったかなんて この核家族化した現在では、知らない場合がほとんどだ。 そんな人間のために、1日中拘束されることに 意味があるとは、到底思えない。
ただまあ、僕が気になるのは、 このような問題よりも、日常生活における上下関係だ。 確かに、法事などで拘束されるのは、 大きな問題ではあるが、頻度としてはそれほどでもない。 それに対して、何らかの上下関係に組み込まれてしまった場合、 その影響は日々の生活に及ぶ。
合理的に設計された上下関係なら問題は少ない。 例えば、会社の組織などは、 会社を運営するためにどうしても必要なものだ。 経営者という少数の人間が、多数の人間を率いるためには、 ピラミッド型の構造が不可欠だろう。 しかし、それとはまったく関係なく、 不必要に自分の利益のためだけに存在する 人間の集団が、多すぎる気がするのだ。 その極端な例が派閥だ。 政治の派閥なんて、どうして公に認められているのか まったく理解できない。
やはり、書くことがない上に 眠いときに、無理に書こうとすると どうしても無理があるようだ。 書いても書いても、なんだか全然納得がいかない…。 キーを叩く指の爪が妙に気になるので、 とりあえず切ってくることにする…。
2002/11/24 3:20
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