2002年11月14日(木) |
恋愛は心を弱くするのか |
2002/11/14 21:19 Access: 4060 (+24) 今日は、部屋に弟の友人が来ているので、 PCどころかInternetも使えない。
今日は、1限から講義があったが、 2限で終わってしまった。 本当は4限もあったのだが、 今日は休講になったのだ。
例のごとく必死に起きたのだが、 今日は、ほとんど報われなかった。 まあ、そういうこともある…。
ちなみに、朝がきついのは学生に限ったことではないらしい。 教官の方にも問題があるようで、 朝、たまたまとある教官にばったり会って、 その人が「昨日の委員会で1限の講義が問題になっている」と 言っていた。 そういうことを学生に話してしまっていいのか、とも思うが、 まあ、おもしろい話だし、僕としてはまったく構わない。
流通経済論は、なんだったかな…。 企業についての話だったのだが。 まあ、細かい部分はテスト前にでも見直せばいいだろう。 要するに、企業の範囲の話だ。 企業は、自社の業務としてどの程度の範囲を扱うべきか、 そして、どの範囲を系列とすべきか、 というような話だ。 日本は、外部に委託すべき領域まで 系列にしてしまう傾向があるらしい。 確かに、そういう印象は否めない。
2限の知識情報処理は、命題論理学の話だ。 計算機上で人工知能を実現する上で、 論理学というのは極めて有用なツールとなりうる。 そのために、システムの具体的な話に入る前に、 基礎となる論理学の知識を身につける、 というのが本来の話のはずだ。
しかし、この教官は去年、アメリカに行ってしまっていて、 この講義は開講されなかった。 そのため、その具体的なシステムの方を先にやってしまったのだ。 だから、システムの勉強をしたとき よく分からなかった話が、今になって解決する、 というような形になってしまっている。
ちなみにこの教官、 僕の卒論担当教官でもあるのだが、 なんだかものの考え方が父に似ている気がする。 Farelady Zに乗っていた、というのはちょっと笑ったが。 大学の教官とZという車のイメージは、 まったくつながらないのだ。 昔はZに乗っていて、 娘が生まれてからはベンツに乗り、 アメリカに行っていたときは レンタカーでキャデラックを借りていたらしい。 その娘に、ベンツよりバスの方がいいと 言われたとかで、がっかりしていた。
前にも書いた気がするが、 僕の受講しているゼミナールは、 他の教官の担当学生と一緒にやっている。 Javaをやるという内容が共通しているからだ。 それで、そのもう1人の教官にも娘がいるらしい。 だから、ゼミナールの途中で娘の話に花が咲いて、 実におもしろい。 ゼミナールはいいのか、と思われるかも知れないが、 プログラミング言語なんていうのは、 結局のところ、自分で概念を理解して、 自分で慣れるほかにどうしようもない。 確かに教わった方が早いこともあるだろうが、 基本的には自分でなんとかするものだ。 文法的な制約が極端にきつい語学と思えばいい。
語学との違いは、 単語や熟語に当たる命令文が、 自然言語と比べて極端に少ないこと、 それから、文法に例外がないこと、 表現できる内容が極めて限定されていること、 あと、文法に例外がないということに結びつくのだが、 そもそも論理的な内容しか扱えないことも挙げられる。
以上のことから何が言えるかということだが、 一言で言ってしまえば、自然言語よりずっと簡単だということだ。 1つのことを表現するのにさまざまな手法がある、 などということはあまりないし、 表現による微妙なニュアンスの違いなども存在しない。 文化的な背景は確かに存在するが、 自然言語ほど重要ではなく、知らなくてもたいした問題にはならない。 基本的に、数学と英語をある程度知っていれば、 どのようなプログラミング言語でも、 ある程度意味を把握することが可能だろう。 その「ある程度」がどの程度なのかということは、 言語の種類によってまったく異なるが。 たとえば、低級言語と呼ばれるアセンブラ言語などは、 知らない人間にはほとんど理解できない。 機械語に至っては単なる0と1の羅列だから、 それをアセンブラなどに変換することなく そのままスムーズに理解できる人間がいたら、 それはもはや人間の域を一歩飛び出しているだろう。 一応、論理的に法則があって並んでいるわけだから、 理解しようと思えばできないことはない、はずだ。 やろうとは思わないが。
とまあ、そういうわけだから、 教官に教わる必要など、あまりないのだ。 だいたい、その教官だってC言語は書けるが、 Javaはそれほどちゃんと書けるわけではないらしい。
その教官から、 卒論のテーマとなるシミュレーションプログラムが送られてきた。 一通り目を通してみたのだが、 複雑な技巧は使われていないようだ。 ポインタのメンバもなかった。 通常の構造体のメンバ程度だ。 確かに、この程度なら読み解いてJavaに直すのも 不可能ではない、と思わされる。
…のだが、ちょっと問題がある。 どう見ても、これは卒論のテーマには軽すぎる。 明らかに、ゼミナールで終わらせてしまえる程度の内容だ。 こんなことを卒論にしてしまっていいのだろうか? 楽な卒論を書いて楽に卒業したい人にはいいだろうが、 僕は、そんなつもりで大学に入ったわけではない。 研究をする以上、ある程度自分の能力の限界に 挑戦するようなことをしてみたい。
とは言っても、見た目ほど簡単ではないのがプログラムというものだ。 なんせ、細かいところが非常にうるさい。 たった1つの例外を見逃していただけで、 そのプログラムは致命的なバグを抱えることになってしまう。
それで、そのゼミナールに使うテキストの、 下巻を僕はまだ持っていない。 だから、丸善という本屋で探すことにした。 友人に聞いたら大丸の近くだと言っていたので、 今日、ちょっと行ってみることにした。
東京駅周辺をご存じの方にとっては 非常に間抜けに見えるかも知れないが、 僕はそこで、丸の内の中央口を出た。 実は、大丸の方へ行くには八重州側の出口を出なければならなかったようだ。 それで、その中央口を出てすぐのところに、 前に来たときにはなかった巨大な建造物がそびえ立っていた。 有名な丸の内ビルディング、通称丸ビルだ。 余談ではあるが、この建物、 建て替え前は「丸の内ビルヂング」という名前だったらしい。 なかなかおもしろいネーミングだ。 時代を感じさせる。
少しだけ見て回ってみた。 ゲーム機を置いているレストランがあったり、 なかなか興味深かったとも言えるのだが、 さすがにこういう場所に1人で行ってもおもしろくはない…。
そもそも、そんな丸善なんて本屋に行こうと思ったのは、 先程述べた友人の言葉があったからだ。 そうでなければ、大学の本屋で買うか、 新宿の駅のすぐ近くで買ったに違いない。
僕は、この数ヶ月、確実に弱くなった。 些細なことで心を乱すようになったし、 本来なら考える必要もないほど細かいことを気にするようになった。 特定の状況では冷静さを完全に失ってしまうことにもなった。
昔の僕は、不安なんて持っていなかった。 失いたくないものなんてなかったし、 死んでも問題ないとさえ思っていた。 生きていたって、別に意味があるわけでもない。 機械的自然観の元では、所詮人間など、 自然法則が生み出した偶然の産物に過ぎない。 人間に、目的などないのだ。
だから僕は、自分が楽しいようにすることが一番いいと思うようになった。 そうしていれば快感を感じられるし、それで問題などないからだ。 そんなことばかり考えていると、 たとえば、地球の環境が汚染されたり、 生活が乱れたり、様々な問題は起こるだろう。 しかし、それに問題意識を持っているなら、 それはただ、それぞれに応じて対応していけばいいのだ。 そういうのはあくまでも対症療法であって 最善の選択ではないが、自分の快楽を追求するなら、 そうなるしかないと思うのだ。
それで、そんな考え方では、 楽しさなどまったく持続しなかった。 所詮、どんな娯楽もまやかしだ。 自分の本当にやりたいこと、という感触とは違う。
しかし、今の僕には、 たった1つ、重要なことがある。 それだけは、失いたくない。 だから、それを失いたくないがために、 くだらない危惧を抱き、妙な行動を起こすようになった。 結果として行動力が増し、端から見て変化したように見えるらしい。 しかし、それは単に恐怖に追われて起こしている行動に過ぎないとも言える。 失うのが怖いから、何かをせずにはいられないのだ。 ほとんど強迫観念だ。
失いたくないだけではない。 もともと僕は強い欲望なんてなかったのに、 今は欲しくてたまらないのだ。
望んでも、手に入らないことはもう分かっている。 どんなに金を積んでも、どうしようもないことはあるものだ。 まあ、僕はそれ以前に、積めるほど金を持っていないが。 現在の貯金は、約20万円。 ちょっと前まで30万円持っていたから、 だいぶ減ってしまったことになる。 ちょっとしたアルバイトでは、焼け石に水だ。
僕は、昔はもっと強かった。 意志は弱かったが、何事にも動じないだけの強さがあったはずだ。 しかし今は、些細なことで心が揺れ動き、 そのたびに冷静な判断ができなくなり、 後悔を繰り返している。 ちょっと前まで、最善とは言えないまでも、 後悔しない選択ができていたのに。 前々から思っていたことだが、 最近は特に、年を取るにつれてどんどん 後ろに戻っているような気がする。 人間のピークは18歳頃ということだろうか。 すでに今、その頃と比べていくつかの点で 衰えを感じている。
2002/11/14 22:37
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