Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2002年06月13日(木) 汐路丸実習3日目

ここから先は、家で直接記入している。
揺れる上に海面より低い位置にあるため窓もなく、
そしてなによりも圧倒的に狭いベッドの中で、
肩をすくめて小さなLibrettoのキーボードを叩いているわけではないのだ。
しかし、なぜかその狭い空間の方が良かったと思ってしまう。
いったいなぜなのだろう?

記入しているのは14日の17時頃であるため、
13日にどんなことをやったのかはほとんど覚えていない。
とりあえず、八景島沖から離れて館山湾に投錨したことだけは確かである。

起床して、掃除をして、朝食をとって…。
そこから先の記憶がほとんどないが、たしか
船橋に行ってデジタルカメラで写真撮影をしていたはずである。
デジタルカメラそのものにはズームの機能はないのだが、
カメラの撮影部に無理矢理双眼鏡を押し当ててやれば
拡大して撮影できることに気づいたのだ。
デジタルカメラの詳細な構造は分からないが、
こんな無茶なやり方で拡大ができるとは思わなかった。
しかし、それならどうして光学ズームを搭載した商品が現れるのが
こんなに遅く、しかもその商品はどうして高価なのだろう。

航海中の当直は、確か一回やったはずだ。
しかし、その間に実験を行ったため、
なし崩し的に当直の時間が終わってしまった。
そもそも僕たちは、航海術は専門でないので、
当直に立ったところで何の役にも立たない。
あくまでも体験することに価値があるということだろう。

それ以外に、12日から13日にかけての夜、
朝の4時から5時の1時間、停泊当直を行った。
こちらはまったく役に立たないと言うことはないかも知れない。
停泊中とは言え、船は海に浮かんでいる状態だ。
いつ障害物が現れるか分からない。
そのために、そのようなものが向かってきたりしないかどうか監視するのだ。
また、それ以外にも気象条件を観測して記帳したりする仕事もある。
航海術は分からないが、必要があってのことだろう。

実験は、班によって旋回径の測定と停止惰力の測定の2つに分かれた。
僕は停止惰力の測定を行った。
実際には停止惰力の測定に伴う初期条件の観測だ。
そんなことを言っても、東京湾の中なのでうねりはなかったし、
風も真風力計と真風向計を見ればすぐに分かる。
風浪は、目測ということなのでこれもすぐに終わった。
まあ、大したことはしていないということだ。

この日の夜、2人の友人に呼び出されて
1時間くらいいろいろ言われた。
内容は人生の哲学みたいな抽象的な話が多かったが、
要するに、前から書いている例の彼女ともっと積極的につきあっていけ、
ということだった。
哲学的なことをさんざん言っても結局のところ、
自分たちがおもしろければそれでいいのか、と思い、
自分は与えられた環境の中で最善の選択をするだけだ。
彼女を誘ったりすることが最善の選択とは思えない、
…とまあ、シニシズム的というか冷徹というか
とにかくそういう返事を返したら
「殴ってやる」とか「卑怯だ」などと言われた。
まあ、人間は結局本音をぶちまけてはいけないということだ。
あるいは、本音を言う相手を間違ったということだろう。
これは僕が悪い。
感情的な議論を持ちかけている相手に対して
冷静な議論ではなく冷徹な議論を持ちかけては逆効果だ。
僕がとるべきだった態度は、
あくまでも相手の言葉を忠実に受け入れ、
なるべくならその相手の言葉通りの行動で示すことだったのだ。
途中で気づき、実際その通りにしたのだが。

理不尽な意見に対しては、強い力を持たない以上、
反抗することで得る利益は少なく、損失は大きい。
あくまでも意見を受け容れることが最善の選択であろう。

ただ、分かってはいたのだが、
そうなると、上記の彼女が犠牲になることになる。
彼らの興味によって僕が行動し、彼女は僕の行動によって、
おそらくは真剣に考えるだろう。
確かに、僕が彼女に強い興味を持っていることは事実であり、
それだけなら彼女が犠牲になっているとは言えないかも知れないが、
その僕の背後には、興味本位で僕たちの動きを注視している人間がいる。
その時点で、彼女は被害者である。
僕は、そのことを知っているのだから被害者とは言えないだろう。
彼らと同様の加害者である。

当たり前だが、僕は初めから加害者になるつもりはなかった。
しかし、上記の損失に耐えられなくなったのである。
あえてぼかして表現すれば、その損失とは信用を失うことである。
彼らは彼ら自身の判断基準で僕を判断し、
彼らの判断基準に僕が適合しなくなったら、もはや僕を信用しない。
それでは、僕は困るのである。
冷徹なようではあるが、当然、僕だって同じように彼らを判断している。
そして、上記のようにひどく強引な点はあるが、
おおむね信用できると判断しているのだ。
詳しいことは相手の心が読めるわけではないので分からないが、
彼らは、一度信用した相手が信用できなくなるのを
避けたがる傾向にあるらしい。
自分の判断の間違いを認めたくないのか、
あるいは僕のことを本気で心配しているのか…。
極めて信頼性の低い根拠ではあるが、
「僕の見た感じ」では、一応後者のような気がする。

それで、彼らの意志によって僕が起こした行動、
つまり、彼女に対してアプローチを仕掛ける、ということであるが、
これはあっさりと失敗した。
どこかに遊びに行かないか、と僕は言ったのだが、
それに対して、また後で連絡する、という
極めてよく使われる否定の文句によって断られたのである。
これで、彼女だけでなく、僕にとっても最善の結果が得られた。
彼女が犠牲者となることはなく、
僕も行動は起こしたのだから、最悪の損失は免れた。
誘って断られる、ということは少し残念であるが、
かと言って、これが悪い結末だとは思わない。
まあ、この極めて当たり前の結末を予測できなかった僕は馬鹿であると言うことだ。
僕に対して行動をけしかけた2人はがっかりするかも知れないが、
尖兵として僕を使ったのが悪いのだ。
それにしても、僕のこの方面に関する能力不足は
僕自身よりも彼らがよく知っているはずである。
それなのになぜ、僕にこういうことをさせたのか理解に苦しむところがある。
自分たちがおもしろければ結果がどうなろうと知ったことではなかったのかも知れない。
これで、結果的に彼女と僕との間は
少なからずぎくしゃくすることになった。それが楽しいのだろうか。
そんな考え方をしているのなら、
わざわざ長い時間をかけて僕に説教などしないと思うのだが…。
まあ、いくら考えても、人間の心は読めないのだから、真相は闇の中だ。

僕の望みは、あくまでも彼女と「良い友達」でいることである。
彼女は僕の判断する限りでは非常に理知的であるし、
技術的な知識において僕より優れている点が多い。
人格的にも、(それこそ本当のところは分かったものではないが、)
僕が見る限りではまじめで勤勉であるように感じる。
友人として尊敬できる相手だということだ。

まあ、実習中はかなり長い時間彼女と一緒にいたので、
周囲の人間が誤解するのも分かるし、
彼女に多大な迷惑をかけたことは間違いない。
十分に反省すべきだと思っている。
あとはこの誤解によって、彼女に精神的な苦痛がないよう祈るのみである。

所詮人間は利己的だ。
すべての行動は、結局のところ自分の満足のためである。
しかし、それでも相手のことを思い、
自分の行動を制限するのが悪いとは思わない。
「彼女に悪く思われたくない」という利己的な動機だとしても、
結果としてその彼女のためになれば、それはそれでいいのではないだろうか。

気象条件は、確か曇りである。
あと、14日の下船式で聞いたのだが、
どうやら梅雨入りしていたらしい。
湿度は海の上であるため、湿度計で見る限り100%の飽和状態である。
ちなみにこれは、1日目から4日目まで、
ほとんどすべての時間、そういう状態である。

…忘れていた。
この日は、釣りをしたのだった。
湾内の沖合に船で出て釣りをしたのだ。
これは、常識的に考えればかなり貴重な体験であろう。

それで、館山湾にてアジを釣ったのだが、
これがまあ、何とも実に簡単に釣れる。
僕は正真正銘の素人なので、誰にでも釣れると思って間違いない。
さすがに、沖合に出ると違うものである。
水深は27メートルだったのだが、
その一番底までおもりを落とし、糸を巻いた瞬間にかかり、
そのまま釣り上げたら2匹かかっていた、
ということもあった。
環境が贅沢なだけあって、本当に簡単だ。
ただ、イカを釣るのはそれなりに難しかったようだ。
とりあえず、僕はまったく釣れなかった。

ついでに言うと、この釣りをしたときも、彼女は一緒だった。
…これでは、つきまとっていたと言われても否定できない。
初めはせっかく知り合ったいい友人だから、
そのまま疎遠になりたくないと思ってちょくちょく話しかけていただけだったのに
どうしてそんなことをしてしまったのか…。
僕はもっと、物事の限度を知るべきである。
常に冷静に、客観的であるべきである。
常に視野を広く、行動をするときも他への影響を広く考えるべきである。
常に事象に対して、それを分析し、理解する姿勢を持つべきである。
エトセトラエトセトラ…。
目標は果てしなく大きく、自分の能力はそれと反比例するように小さい。

ちなみに、これ以外に上記の友人に批判された目標として、
物事は確実に理解し、曖昧なものは理解できていないと考えるべきである。
常に先を考え、リスクのある行動は避けるべきである。
損失を最小に、利益を最大にする行動を心がけるべきである。
判断は常に自分の能力に基づいてなすべきである。
などがある。

1つ目については、「分からなくてもやってみろ」ということらしい。
やってみれば分かることもある、らしい。
2つ目は、物事から逃げるな、ということらしい。
リスクを避ける姿勢が、逃げているように見えるようだ。
3つ目は、卑怯だ、とのことだ。
なるほど、それならば経済学は卑怯なのか、
とやり返したくなったが、それこそ損失ばかりで利益がないので
なにも言い返しはしなかったが。
4つ目は、「自分で壁を作っている」とのことだ。
人間にはできることとできないことがあるのは当然で、
「できないことはできない」のも当然である、と僕は考える。
これは同語反復に近いからだ。
「できない」という言葉の名詞形と「できない」という動詞を結びつけているに過ぎない。
品詞が違うだけで、意味としては同じことを繰り返しているだけだろう。
極めて当然で、疑う余地はまったくないと考えられる。
もちろん、主語と述語の「できない」という言葉が
それぞれ想定する時間などの条件、つまり言葉の定義が違えば、
論理学的にも普通の考えでも、これは偽であると言えるだろうが。
「今にできないことは将来もできない」と例示すれば、
僕の言いたいことが理解できるだろうか。

だが、もしこの例示のような状況であるなら、
僕は将来の自分の能力を予測し、それで判断をすることになる。
結果的に、主語も述語も同時間の「将来」を指し、
結局のところ同じことを繰り返すことになる。
違うとすれば、主語は予測された将来であり、述語は現実の将来であるということだ。
「予測された将来できないことは、現実の将来でもできない」となる。
予測と現実の誤差が問題となってくるわけだ。
だが、「自分で壁を作っている」ことにはなるまい。
将来のことであれば、将来の自分を高く予測すればいいだけのことだからだ。
まあ、ただ、今までの経緯を見れば、
自分の将来を高く予測できないのもまた、自明なのではあるが。
理由は簡単。それだけの努力をしていないからである。

友人は、リスクを負え、と言う。
ただでさえリスクの多いこの世界で、
自分から進んでリスクを負うことの利点が僕には理解できない。
確かに、良い結果を招くこともあるだろう。
しかし、僕は現状に満足している。
確かに理想からはほど遠いが、それが不満というわけではない。
そこであえてリスクを冒すことに、いったい何の意味があるのだろうか?

僕は変化を望まない。
望むのは、あくまでも最小の損失で最大の利益を得ることである。
これで、十分良い結果を得られる。
元々の現状が満足すべき水準にあるのだから。
僕個人の判断基準だけでなく、
人類の歴史上で見ても、僕の置かれている環境は決して悪くない。
もちろん、より優れた環境、より満足できる環境は存在するだろう。
しかし、それにはそれ相応のリスクを伴う。
リスクと相殺されれば、優れた環境の利点はかすむ。
僕には必要ない。
…と、僕は「つまらない人間」だと言われた。
それで結構。おもしろい人間になることなど興味はない。
他人がおもしろいのはいいが、自分がおもしろい必要などない。
確かに、より大きな信用を得られる結果につながるかも知れないが、
なくてもこれまでやってこられたという実績がある。

「おもしろい人間」になるのは難しい。
何らかの点で優れた人間は、結果的におもしろい人間であることが多いが、
別にそうでなくてもおもしろい人間はいる。
が、普通は何らかの点で優れている人間を目指すだろう。
このとき、主眼はあくまで優れた人間であり、
おもしろい人間など、もはやどうでもいい。

まあ、結局のところ、
彼らは僕が自分たちの考える姿と違うのが
気に入らないだけなのだと思う。
考えたところで、彼らに考えがあったかどうか分からない。
…だからどうと言うこともないが。

//(了) 2002/06/14 18:47


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