夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2002年09月17日(火) 元サヨクは、<市井の社会学者>でありたいと願う

 ここのところ、職場の仕事は多忙を極めている。加えて、体調も絶不調のまま、昨日までの3連休に突入した。連休中は、稽古の日々。青白い顔をさせながら、稽古に参加した。今日稽古が休みだったのは助かったのだけど、仕事もしっかりと残業があって、なかなか身も心も休まらない。帰宅して、ほとんど倒れ込むようにして眠った。そして今、夜中に目覚めてこの日記を書いている。

 表題にある「元サヨク」とは、私のことである。バリバリのマルクス主義者ではなく、軽〜いノリのサヨクであった。80年代に大学生活(上智大学文学部社会学科に進学していた)を迎えた私だったが、その頃「学生運動」はほとんど衰退していた。それでも、「東京サミット阻止」を叫ぶ、いわゆる一部の過激派による爆破騒ぎなどが見られた。東京での一人暮らしは、地方出身の私には十分過ぎるほど刺激的だった。あの4年間なくして今の私はなかったと言っても過言ではない。
 あの頃、学内においては、大多数のノンポリ学生(あ〜、なんて懐かしい響きだろう)のなかにあって、部落差別とか南北間格差の問題とか核の問題とかを論じている一団があった(そんなことを言ってる多くの連中はいいとこのお坊ちゃん・お嬢さんで、卒業後はそんなことなかったかのように「一流企業」に就職していった。でも、一部には骨のある連中もいて、今でも彼らなりのポリシーを持ち続けているようだ)。そんな人達と一定の距離を置きながら、私もその一団に加わっていたのだと思う。「思う」なんて曖昧な言い方だが、そのなかにありながら違和感を感じてもいたということだ。
 一方でその頃所属していたボランティア・サークルにおいても、私はその活動と一定の距離を置こうとしていた。「天下国家」を論ずる連中が具体的な「実践の場」を持たないのとは逆に、ボランティア・サークルの連中ときたら「実践」の一方で「理論」はほとんどなく、「天下国家」には無関心というのがほとんだだった。私は、両方に対して不満であった。
 その頃、私の社会学の師・鶴見和子氏(評論家・鶴見俊輔氏の姉)との出会いがあった。鶴見和子氏は、アメリカ社会学の理論を学ぶ一方で、柳田国男、南方熊楠といった民俗学の巨人たちの理論をも取り入れながら、独自の<内発的発展論>なるものを展開していった。また、学者として、水俣病の「社会科学的調査・研究」にも取り組まれた。彼女の講義は、大変わかりやすく、またはっきりとした物言いをなさる方で、その小気味のいい弁舌は学内でも大変評判がよかった。ゼミでは、かなり手厳しい批評をされるのだが、決して学生を甘やかさないその態度は一本筋が通っていて教育者としてもすばらしかったと思う。その彼女が、数年前突如として「身体麻痺」に襲われた(『ボディ・サイレント』の著者ロバート・マーフィー氏と状況は似ている)。以後、老人ホームで暮らすようになるが、歌集を発表したり、評論集を出されている。今も、彼女の生きざまに学ぶべきところは多い(鶴見和子氏については、今後もまた触れたいと思っている)。

 大学を卒業してからも、いろいろとあった。あれから15年ほどが過ぎてしまった。大学卒業の年(1989年)は「昭和」が終わった年でもあった。天安門事件があり、東欧諸国の革命の年でもあった。そして、91年の「ソ連邦崩壊」は、左翼陣営にとって致命傷となった。そして、その後のバブル崩壊、「失われた10年」と続くわけである。社会主義が敗れ去った一方で、資本主義の矛盾はますます深まりゆくのであった。
 20世紀の終わりに一連の「オウム真理教事件」があった。「政治の季節」はとうの昔に終わっていたのだ。あまりに稚拙な「革命」は失敗に終わったが、その「革命」が新左翼によってではなく、一宗教団体によって起こされようとしたところに90年代を感じた。
 そして、1年前のニューヨーク・世界貿易センタービルで起きた一連のテロ事件は、私たちにこの上もなく大きな衝撃を与えた。あまりに現代を象徴した事件とも言え(起こるべくして起こった事件だとも言え)、非常に不気味な感じがした。あの事件に現代世界の矛盾が、構造的な暴力が、凝縮されているのだとも思った。
 
 社会学は、ひとことで言えば、個人と社会の関係を考察する学問である。矛盾の多い世界の中で人はいかにすればよりよく生きられるのか、究極の疑問に社会学が果たして答えられるのかはわからない。でも、私はこのシャバのなかで生活しながら、<社会学者>となって究極の疑問に対する答えを探し求めたいと思うのだ。
 


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