夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2002年06月15日(土) 「I am Sam」

 午前中映画を観た。
 午後仕事絡みの研修で、小林繁市氏(北海道・伊達市地域生活支援センター所長)による講演会(「まちに暮らす〜知的障害のある人たちの地域生活支援を考える〜」)に出席。
 それが終わってから、pH-7アトリエ移転準備の作業。
 で、今日は午前中に観た映画について触れたい。

 名駅の映画館で「I am Sam」を鑑賞。知的障害を持つ父親と幼い娘の絆を描いた作品だ。「知的障害者」サムは7才になる愛娘ルーシーとふたり暮らしを送っていたが、知的障害を理由に福祉局から親権を取り上げられ、ルーシーとも引き裂かれてしまう。弁護士とともに親権を取り戻すべく奔走するのだが・・・。
 その感想については、「見やすい映画」ではあったが、とても丹念に描かれた作品だと感じた。「障害者」と言えば、「健常者より劣った存在」「健常者に一歩でも近づくべき存在」ととらえられるか、もしくは、「純粋・無垢な存在」ととらえられがちだ。そうした見方は、映画やテレビ・ドラマにも反映される。特に、「障害者」を扱った日本のテレビ・ドラマにはおよそ鑑賞にたえない作品が多い。その点、「I am Sam」は取り組んだテーマもよく、展開もよかったと思う。
 知的障害を理由に愛娘と引き裂かれてしまうという悲劇性は、現実の社会のなかに包み隠されている。「専門的立場」と「善意」とによって「専門家」は、結果的に「人間の絆」を断ち切ってしまうという過ちを犯す危険性を持っている。
 知的障害を持つ者にも幸福を追求する権利がある。結婚する自由だって、子供を生んで家庭を築く自由だってあるはずだ。知的障害のゆえにトラブルを生ずる場合もあるかもしれない。しかし、他人様が「人間の絆」まで断ち切ることなど許されることではない。あくまでも「人間の絆」を壊すことなく、いかなる支援があればトラブルが解消されるかが考えられるべきことなのだ。
 タイトルの「I am Sam」にこめられたであろうメッセージを読み解いてみる。「私はサムという固有名詞を持った人間」であり、「知的障害者として十把ひとからげに語られることを快しとは思っていない」ということが一つにはあろう。
 また、「私は、尊厳ある唯一無二の人間サムとして」「今ここに存在する」との意志表明ともとれなくはない。障害を持った人間は社会のなかに身の置きどころがなく「施設」に追いやられている、という現実がある(俺自身は「施設職員」でありながら、「反・施設」とでもいうべき思想を持っており、そのあたり微妙な問題を抱えてはいるのだが・・・)。「知的障害者」の呟きは周囲にかき消され、社会的には存在を否定されるという状況が続いている。「社会的な不在状態」からの回復こそが求められている。
 それにしても、映画の全編を流れるビートルズ・ナンバー(カバー曲)の数々は、ドラマに彩りを添え、よりいっそう深い感動へと導いてくれる。どちらかと言えば、「ストーンズ派」(その昔、洋楽ファンの間では、「ビートルズ派」か「ローリング・ストーンズ派」かが問題とされた)の俺だが、あらためてビートルズの名曲に聴き入ってしまった。

 近日中に、「障害者のSEX」をテーマにしたフランス映画「ナショナル7」が封切られる予定。それも観に行くつもりにしている。

 


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