カタルシス
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2003年12月04日(木)  TABOO 

英国映画『司祭』を観た
観た後で少し調べてみたら色々と面白いことが解ったので そのことについての独断と偏見を書きなぐってみようと思う

何でもこれは公開の際 全米のカソリック教会から強硬な抗議を受け ついにはローマ法王まで抗議声明を出したという禁断の作品らしいが 観ようと思ったきっかけはそんな厳粛な興味からではなく 単に“俳優ロバート・カーライルが出ている”からという シンプルなものだった

一体何がカソリック教会やローマ法王の抗議を受ける原因だったのかというと この映画で描かれている“司祭の同性愛”がとにもかくにもいけなかったらしい

カソリックはプロテスタントと違って司祭(神父)の妻帯を認めていない それは結婚をしなければ良いという意味ではなく一切の肉欲を禁じているということである 老若男女を問わないどころか 相手が例え人形であっても淫らなことはタブーとされている 絶対的な「禁欲」を求められる存在だ

更には旧約聖書のレビ記に記された禁忌規定にある「女と寝るように男と寝る者(男)は必ず殺されなければならない」という言葉から キリスト教では同性愛は認められないものであり カソリックの総本山であるローマ・カトリック教会では「生殖以外の目的で行う諸々の性行為は罪である」としている

故に本作品が扱うテーマは公開を目前に センセーショナルに騒ぎ立てられた
「信仰への冒涜である」


しかし実際に見てみると 登場する司祭が信仰を冒涜しているとはとても思えない作品になっていた 敬虔なクリスチャンであり真面目で理想に燃える若き司祭の姿がそこにはあった そして自分がゲイであることに悩み 肉欲と信仰の狭間でもがき苦しんでいる 誠実にあらんとする崇高さ故 自分ではどうすることもできない現実があることに精神を苛まれている

私自身はカソリックでもキリスト教でもないので彼らの信仰というものが一体どういう善悪の判断をもたらすものなのか 想像することもままならないが 客観的に見ていてその青年は“何よりも信仰を重んじる司祭”に見えていた そして同時に秘密や欲を持つ血の通った一人の“人間”でもあった

…「信仰への冒涜」というとらえ方は あまり適切ではないというのが感想だ


確かにタブーとされている罪を犯しているのは確かだが 懺悔や免罪といった“赦し”の精神を持つはずの彼らが ぎゃーぎゃーと喚き立てたというのはどうにも見苦しさを感じる

カトリックの十戒
第一 われはなんじの主なる神なり、われのほか何者をも神となすべからず。
第二 なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。
第四 なんじ、父母を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、姦淫するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を望むなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

信仰への冒涜と謳うならば十戒に背く全てのものに当てはまるはずだ
父母を虐げ 殺し 姦淫し 盗み 嘘をつく映画など 吐いて捨てるほど存在するが「信仰の冒涜」だと教会側が騒いだかと言えば 大抵がそんなこともない それが教会の中を舞台にした途端 慌てて抗議文?

自分の身さえ安全なら黙認もするが 降りかかる火の粉は形振り構わず振り払う

そんな利己的な姿が浮き彫りになったようで 白々しさが漂う

カトリックといわず 世界中に存在する全ての「宗教」と名のつくものに対して漠然とした不信感を持ってしまうのは そんな生臭さが見え隠れするからだ
他人の信仰を否定する気も汚すつもりもないが「慈悲慈愛」「平和と安息」「真理開悟」等を謳い上げている割には 対立や争いごと 延いては戦争の勃発さえ宗教絡みが多いというこの皮肉な事実


人間を突き詰めると 行き着く先はそこになるということなのだろうか

『TABOO』1998年/アメリカ


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