今日はぷらむの日である。 三連休の中日。 夫から、今日はゆっくりしてきていいよと言われていたのだが、 南大沢のヨーカドーで洋服を見て試着して、何回も試着したのだ けれど、買わずに帰ってきた。 買うよりも、まず衣類の整理の方が先だろうと思ったのだった。 東林間の駅前で、禁断のラーメンを食べて帰った。 スープは残さなくてはと思いつつ、みそラーメンにお酢とラー油 をかけてたべたのだった。 醤油ラーメン以外には、お酢をかけて食べるのが好きなのである。 まあ、これから何回ラーメンなんか食べられるかわからないが。 (きっと、今だって食べちゃ行けないはずだと思うのだが・・・)
ぷらむ短歌会、今月のお題は「鶏」。 新年の抱負が、ゆったりと余裕を持って歌を詠む、だったのだが、 今月の詠草もぎりぎりセーフなものだった。 「鶏」題詠三首。
鶏に詫びを入れつつ手を伸ばす朝の卵は暖かかった(市屋千鶴)
決められた数になるまで産み続ける雌鶏の子は吾が腹の中(市屋千鶴)
昨日まで卵をくれた鶏が今日は丸ごと命をくれる(市屋千鶴)
一首目。 わたしの生家では、鶏を飼っていて、毎朝卵を産んでくれた。 卵を取りに行くのは祖父の担当で、たまにわたしや姉も卵を取り にいったりするのだが、鶏はけっこう怖い。 祖父は、詫びを入れるように鶏に話しかけながら卵を取っていた。 そのまねをして鶏をなだめながら手に取る卵は、温かかった。 「暖かかった」ではなくて、「温かかった」にすべきだった。 それと、「詫びを入れつつ」が申し訳なさを語っていると受け取 られてたので、なだめるという状況を詠み込んだ方が良いだろう という指摘をいただいた。
二首目。 巣の中に決まった数だけ卵がたまるまで産むという習性を利用し て、鶏の卵を取るようになったらしい。 それを知っていたので、そのことを歌にしてみたのだった。 その悲しい習性で毎日産んでくれる卵を、自分は毎日食べていた。 この雌鶏を人間の女性とし、決められた卵子の数だけ排卵すると いうことを比喩したものととらえた方がいらした。 わたしは全くそんなことは考えていなかったので、短歌とはそう いうものだと改めて思った。
三首目。 一番身近なところで動物の命をもらっていることを実感できたの が、鶏だったと思う。 毎日卵をもらって食べていたし、何かの際には一羽丸ごと絞めて 料理した。 一番好きだったのは、卵の卵。卵予備軍。 それから、首の骨にくっついている肉はとてもおいしかった。 そんなことを思い出しながらの一首だった。
実際に鶏を飼っていた人の歌には実感があると言われた。 「鶏」というお題で、まったくそのもののことしか詠めなかった のは、常に題詠を意識してきたわたしにとっても珍しいことかも しれない。 それほど、身近に居た鶏やヤギや牛や馬。 ペット以外のいわゆる家畜が、産業としてではなく家の中にいる ことの不思議さを、この年になって思い返している。
|