自分はただの人だと実感したというのは、決して後向きな考えな のではなく、身の程を知ってその上で楽しむためのものだと思っ ている。 負け惜しみとかではない。 どうせなれないから、自分の方から拒絶してしまえというもので もない。
自分の能力はよく分かっているつもりだ。 それに、好きなものでさえ特別に勉強するのはあんまり好きでは ないし、勉強も長続きしない性格なのもよくわかっている。 だから、わたしは歌人にはなれないと思っている。 物書きにもなれない。 まず、読書量が全然足りないのだから、話にならないのである。
というわけで、わたしは短歌が好きで趣味で短歌の会に入ってい る、もうすぐ45歳になる新米かあちゃんなのである。 45歳で新米かあちゃんというだけでも、そこそこインパクトは あるかなぁ。(笑)
子供を産むまで、短歌で子供を読むのはずるいと思っていた。 子供の歌には誰でも惹かれてしまうものだから、その題材を実感 を持って使うことができるというだけで、有利だとか思っていた。 しかし、いざ自分が子供を持って、子供を題材にして短歌を作ろ うとしたときに、何も考えずに作っていたのでは、そこかしこで 見かける歌と代わり映えがしないし、そのなかで自分らしさを出 すことの難しさに気が付いた。 子供は一人一人違うというのに、それを短歌にしようとすると、 どうしても似たような場面を切り取ってしまいがちなのだろう。 それが共感を呼ぶ点でもあり、新鮮みの無い甘いだけの歌になっ てしまう点でもあるのかもしれない。
ぷらむ短歌会で子供の歌を発表する時には、なるべく感情を文字 にしないで、情景だけを詠むようにしようと思って作る。 まあ、なかなかうまくはいかないのだけれど。 それでも、母性本能が万能ではないことや、夫婦と家族の違いへ の戸惑いや、子供を愛おしく思うのと同じくらいに憎たらしく感 じるときがあることや、一つの体でいたものがやはり二つの命で あることを思い知らされることなどを、自分の感覚で短歌に出来 たらいいなと思う。
そして、わたしには子供への愛情と同様に夫への想いも有って、 そうしたものも詠んでいきたいと思っているし、故郷への想いや 生き方のことも短歌にしていきたかったりするのだ。
努力家でもないのに欲張りなのが、欠点である。
見晴るかす稲穂の海は波打って刈られる日まで空にこがれる(市屋千鶴)
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