| 2004年09月26日(日) |
あらためて感想と自分自身の変化 |
昨日の日記で、名前の漢字を間違えてしまいました。 (前にその名前をだしたときも、です。) 「紺乃卓海」さんを、「紺野卓海」と入力してしまったのでした。 訂正してお詫びいたします。
さて、昨日、朗読はわたしにとって感情の過剰摂取になるようだ と書いた。 第1部は、前半後半で会わせて15人が朗読をした。 今日になって思い返してみると、それほど情感たっぷりの人はい たっけかという思いがしている。 不思議なことに、一晩経ってしまうと、その場で感じたいっぱい いっぱいな感じはなかなか思い出せなくなっている。 いったい誰の朗読でいっぱいいっぱいだと感じだのだったろうか。 会場では、思わず目を閉じて耳だけを活かして聞いたりすること もあったのに。
真っ暗な会場、ステージの照明とBGM、マイクを通した声。 それらの小道具が、実際に耳の届いたものに、善かれ悪しかれ、 なにがしかの効果を付け加えているということなのだろうか。 そして、その後に登場する人達の朗読に対する期待にも、それは 影響しているようだった。
なんにせよ、自分にこの場はもう似つかわしくないとは思った。 演劇なら演劇、コンサートならコンサート。 朗読なら、単純な朗読。 それが今のわたしには似つかわしいのだと思った。
一昨年は、なんだかうきうきしていて、初めて歌人という人達を 生で見たことに感激して、舞い上がって、二次会にまで行ったと いうのに。 まあ、二次会の会場で、もしかしたらわたしには似つかわしくな い所ではないかという感触を、もう味わっていはいたのだが。 自分自身も身軽で、家で待っているのは夫一人だったし、この先 もいろいろな場所に出かけて行けると思ってもいた。 そして、だんだんと自分もその世界にはいりこんでいけたらいい なとも思っていたかもしれない。
どこまでいっても、いつまでたっても、わたしは歌人でもなく、 パフォーマーでもなく、物書きでもない。 わたしは、超高齢出産して腎臓に病気を持っているというだけの ただの人なのだなぁと、すこぶる実感した日だった。 それは、何の未練も無く会場を後にし、夫に帰るという電話をし ているときに、ほっとして気が軽くなったことからも明白だ。
フィルターを通して人を見るように現実味の無い世界を逃げる(市屋千鶴)
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