鶴は千年、生活下手

2003年06月12日(木) 食べるということ

食べるということは、もちろん、人間の基本的な本能だ。
それは、自分自身を生かせていくためのもののはず。
その「食べる」という行為に対して、障害を持つということは、
自分自身を否定する感情が深層心理の中にあったり、芽生えてし
まったりしているということなのだろう。
たとえ、つわりで限られたものしか食べられないとしても、病気
で食事を制限されていたとしても、「食べる」という行為そのも
のを否定しているわけではない。

銀行員時代の後輩ちゃんは、疲労している時には食事をとらなく
ても眠る方を選んだ。
わたしは、食べることで疲労を回復していた。
まあ、その違いが体格の差にもなるのだろうが。

「食べる」ということを否定する拒食、その反動の過食と罪悪感
による嘔吐。
摂食障害について、詳しく知っているわけではないが、その心理
の深いところに、生きることを否定してしまいたくなる何かや、
本人の意思に反して否定されたと感じる何かがあるのだろう。

生きていてもいいんだという感情をあまり認識する人は多くない
と思うが、ここに居てもいいんだと安堵する感情は誰しもが多少
なりとも感じたことのある感覚だろう。
ここに居てもいいんだという感覚、その更に深いところに有る、
生きていてもいいんだという感覚。

それを最初に感じさせてくれるものは、母親の存在だろうと思う。
たとえ、父親に捨てられたと感じた時も、母だけはわたしを捨て
たりは絶対にしないと確信していた。
それは、五年生のときに「置いて行くから。」と言われた記憶を
持っていても、自分が捨てられるのだという気持ちにはならなか
ったからだろう。
仕方なく置いて行くのだ、仕方なく選ぶことができなかったのだ
ということをわかっていたからだろう。

そんな母親の存在に支えられていても、それでも若い頃は自分を
大事にせずに生きてきた。
自分から傷つきに行く娘を、母はどんな気持ちで見ていたのだろ
うか。
母がまだ田舎に住んでいた頃は、そこがわたしの帰る場所だった。
姪が産まれて、母が東京の姉の家に来てからは、わたしの居場所
は無くなってしまったような気がしていた。
思えば、それからだから、無茶をしたのは。

ずっと、自分だけの居場所を探していたのだろうと思うけれど、
そんなことは自分で気がついてはいなかった。
どんなに身内が優しくても、自分だけの存在ではない。
自分だけの存在。
夫に出会って、一緒に暮らすようになって、ずっと一緒に居ても
いいんだと確信した時、そこがわたしの居場所になった。

毎日、食べるもののことを考えていることで、わたしは生きてい
るのだということを実感する。
そして、それは自分自身のためだけではなく、ずっと一緒に居て
くれる存在への愛情でもある。

どんなに怒ったり叱ったりしても、自分はここに居てもいいんだ
とちゃんと思わせてあげられるようになりたい。
不器用でも、大事なものを大事だと伝えられるようでありたい。
怒られるから親が嫌いなんじゃない。
自分を認めてくれないから嫌いなんだと思う。
あんたは大事だけど、その態度やそのしたことは良くないことだ
と、きちんと伝えられるような親になりたいと思った。

食べることから、ずいぶんと飛躍。(^_^)
かなり思い込みの激しい内容で、失礼した。

 残り一個食べてもいい?ってきいたのは愛情確認なんかじゃないよ
                           (市屋千鶴)


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