メールをもらった。
「でも、あなたはお父さんに一番愛されたのですね。 そのことにはあまり触れてないですね。 もっとお父さんの記憶を訪ねては?」 (勝手に抜粋してしまって申し訳有りません。)
だけど、父の記憶をたずねて日記に書くのは、冬まで待とうと 思っていた。 強烈な記憶は降りしきる雪と共に有る。 だから、雪の季節に書こうと思った。 ごめんね、言い訳みたいな日記で。>みなさん
父に愛された記憶は確かに有るし、おそらくはわたしのことが かわいくて仕方なかったのだろうと思う。 その事を考え合わせてもなお、すんなりと父に甘えたりするこ とができないほどの記憶があるのだ。 母からは、たとえ「置いていく」と言われようとも、それ以上 の愛情を貰っている。 離婚して、姉は上京し、わたしは母と二人暮らしになった。 とても幸せだった。 それまでで一番幸せだと思っていた時期。
母も父も、離婚したことに対しての子供への負い目があるのか 離婚後も二人でいろいろ気を使ってくれた。 それがなんだか苦しくてしょうがないことがあったけど。
小学校の5年生までは自慢の父だった。 家の前で、父とバイクに乗ってうれしそうに撮った写真もある。 いい学校はでていなくても、頭のいい人だ。 話もうまいし、PTAの会長なんかしていて、学校で父親の話 を聞くことも多かった。 それは、小学校を卒業するまで同じだったが、だんだんと学校 では家のことを考えないようになっていた。
父の知り合いの家では、お酒を飲んで暴れる父親を息子が止め るのだというのを聞いて、とてもうらやましかった。
兄弟が欲しいと痛切に思ったのは、両親がケンカしていて、母 が父に殴られたりタンスに叩き付けられたりしているのを聞い ていたとき。 小学生のわたしや、中学生でもきゃしゃな姉には止めようも無 かった。 ほんとにひどいときには、祖父が見かねて止めに入った。 それも包丁を持って、止めぬならおまえを刺して自分も死ぬと。 部屋の外で黙って聞いていた祖母も、この時ばかりは祖父を止 めた。 自分の夫のために息子を止めた。嫁のためではなかった。
この大喧嘩の翌日、わたしは痣だらけの母から「置いていく」 宣言をされたのだった。 流した涙は、「置いていく」が悲しかっただけでなく、何もで きなかった自分達が悔しかったということもあった。 顔と体に残っていた母の痣は、今でもわたしの目に焼き付いて いる。 母はもう13年も前に亡くなったのに、父は今でも元気だ。
兄弟が欲しいと切に願う夜 母の体の痣は消えない(市屋千鶴)
雪の季節の記憶はこんなものではないのだけど。 父への思いは、雪の思い出と共に雪の季節に書くつもりだ。 今が幸せだから書くことが出来る、辛かったことも。
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