「トロッコ」
をギンレイにて。 芥川龍之介の同名短編小説をもとに映画化した作品。
急死した台湾人のお父さんの遺灰を届けに、アツシはお母さんと弟のトキと、おじいちゃんの住む台湾へとゆく。
色褪せた小さな写真を大事に持って。
そこにはトロッコを押し、振り返った少年が写っている。
その少年はお父さんだと思っていたら、おじいちゃんだった。
「このトロッコの先にゆけば、日本にゆけると思っていた」
アツシとトキは、そのトロッコを見つけ、冒険に、日本へ帰ろう、と手を掛け、押し出す。
トロッコの先に、アツシとトキは、何を思うのだろうか。
えらく親日らしく台湾の人々が描かれている。
わたしの日本名は、サトウナニナニ、です。
そこに、歴史が横たわっている。
台湾は中国の文化大革命によって本土から逃れてきた人々が多くいる。
そんな敵の敵は味方、といった見方があるのかもしれない。
しかし。
いやあ。 弟は、なんて楽な位置なのだろう。
疲れたぁ。 もう歩けないぃ。 帰りたいぃ。 えぇーん、えぇーん。
おかーさーんっ。
抱きつくのも一番。 叱られず、慰めてもらえる。
一転、兄は。
泣けない。 放り出せない。 抱きつく前に、叱られる。
我が姉よ。 三十年をさかのぼって。 その頃はたいへん、 すみませんでした。
しかし今も似たようなもので、ぎゃあぎゃあ騒ぐだけの弟なわたしである。
「おかあさん。 ぼくは、大事じゃないの?」
不安で不安で、 怖くて怖くて。
お兄ちゃんとしてではなく。 ひとりの「ぼく」として、おそるおそる尋ねる。
おじいちゃんは、
「息子が死んだ。 こんな、かわいい孫たちを、 あなたは連れて、会いにきてくれた。 それで、十分しあわせだ」
日本に帰りなさい。
きれいな世界に、たかが人間ひとりの心の影が落ちようとも濁ったりはしない。
そんな世界観だろうか。
さて。
夕方からはじまる一日は短い。
短いがそれなりに、寄り道くらいはするのである。
以前、「ブツン」と切れたストラップの小槌のお守りを、神田明神に納めにいったのである。
もちろん、代わりをいただきに、でもある。
行きがけだったので、まだまだ陽は明るい。 寄り道の寄り道で、湯島天神をちょいと抜けさせてもらったのだが、今はちょうど「梅祭り」の最中である。
ぽつぽつとした白梅の花々が、油断をすると空に溶け込んでいってしまう。
空がまだ、多少赤みを滲ませてきたとはいえ白いうちに、神田明神へ急がねば。
巫女さんが引っ込んでしまう。
スタコラと坂を下ってまた上がって、悠々と札所で物色できるくらいにたどり着く。
なんと同じものが、ない。
これは困った。
同じ小槌でも、貝の鈴がくっついてるのである。
それは、申し訳ないが、かさばって邪魔になってしまう。
仕方なく違うものを選んだのだが、真剣な顔で腕組みあごをさすり、じっとねめつけている男の姿は、不気味に映っていたに違いない。
その挙げ句が、ちょろんとひとつだけ、である。
なんとも、ちっさい。
それでも、いっちょ前に手を合わせてぶつぶつつぶやくことは、遠慮なし、である。
小槌でコツンと叩かれそうである。 幸いにも、目を開け一礼したあとでも、頭にたんこぶも、痛みもなかった。
どうやらそれに至らぬほど呆れられてしまったのかもしれないが、呆れたということは聞こえたということである。
わたしの、わけがわからぬ前向きさは、健在、のようである。
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