「隙 間」

2011年02月13日(日) 「絲的炊事記」に竹的衰弱記

絲山秋子著「絲的炊事記」

著者が雑誌「Hanako」にて連載していた料理エッセイである。

料理が描かれるというのは、まさに垂涎のものかはたまたため息ばかりのものか、当たり外れが大きい。

個人的には、川上弘美が描く食事の表現が、大好物である。

もう、よだれが既にあごの付け根で待機万全、虎視眈々と準備体操をはじめてしまうほどである。

絲的料理は、惜しかった。
いまいち、食い付けない。

結局は酢豚かエビチリになるのに、パラパラと何ページもめくって最後まで見てみる街の中華料理屋のメニューのようであった。

ましてや、忙しないなか、なかなか、書くのはおろか読むことすらかなわない毎日に、不満と苛立ちを抱えている真っ最中である。

食生活も、時間がなく、いけないとわかっていても買って帰って食って寝るだけが続いているのである。

米研いで、炊く。

申し訳ないが、こんなわたしに、その余力すらないのである。

ひとよりさらに、器がちいさいのである。

またタイミングが悪いことに、社内課題図書の二冊目、セブンセンシズならぬ……。

七つの子でもなく……。

七つのなんたら……とかいうタイトルのぶ厚い本を読まねばならなかったのである。

あまり機嫌がよくなるものではないことくらい、予想がつくのである。

たいがい、

ああ、そうですか。

と、著書にではなく、これまでに巡り合ってきた先輩、上司、有職者の言葉をなぞったものばかりなのである。

もちろん。

それらをわたしに聞かせてくれた諸兄諸氏が、著書から学んだものであったりするかもしれない。

しかし、わたしは著書の、

わたしとは何の関わりも現実味もない清書されたものよりも、

わたしの関わるところで、身をもって身をつまされたり身を粉にしたりしてきたそのひとから、諭されたり叱られたりなじられたり、そして尻をたたかれたりしてきた言葉こそが、第一である、と思うのである。

ちょいと不出来なものに対すると、どうするのがよいか、伝えるべきことや伝え方などを、自然に考えるようになる。

そのようなことの恩恵かもしれない。

それらのことについては、また次の回にするとして。

竹的炊事記――。

を、ちと述べておこう。

なに、たいそうなものでないのである。

一月は、片手で足りるくらいしか、料理をしなかったのである。

いただいたお肉をすき焼いたりしたのは料理から外すとして。

さらに、料理といってもわたしの場合、以下のようなもので、人様に料理してますとは口が裂けてもいえない程度の低さである。

・野菜を切る
・炒める
・「味覇」や塩胡椒醤油オイスターソースやらを適宜適当に振りかける

以上である。

そんな十分くらいの作業すら、片手の数くらいしか、だったのである。

米を研いでタイマー予約しとくなど。

朝、出勤前にそんな余裕はなく。
夜、寝る前はもっと余裕はなく。

近所にコンビニはない。
オリジン弁当ならある。

しかし、高い。

さらに帰ってくるのは深夜である。

玄関をあけたら、寂しくテーブルの上でラップがライトアップされていたって構わない。

それがどれだけ羨ましい風景に思えたか。

外食などもってのほかである。
財布の紐は、十重二十重に固結び、である。

そこにあるわたしのひと筋の光明が、「デリカ ぱくぱく」という弁当屋である。

二十四時間営業で、弁当はどれでも、二百五十円(税抜)なのである。

場所は鶯谷、正岡子規や林家三平にゆかり深い根岸にある。

会社から品川で山手線に乗り、乗り換えなしである。

普段は御徒町でおり、徒歩でてくてく、不忍通りを上野動物園や不忍池を通り過ぎながらのぼってゆくのだが、最近はめっきり、頻度が低くなっているのである。

玄関開けたら、五分でご飯。

弁当をレンジに入れ、着替え、手洗い、どっかと座り込む。

パックの野菜ジュースをカップにたっぷり一杯、弁当を頬張る。

満腹感の眠気が、ただならぬ状態のわたしにさらなる追い討ちをかけだすのである。

すでに薬効は切れている。
しかも通常より増やしてあるものだから、反動が強い。
それでも舞姫を忘れずに眠りに入らねば、翌日がもっとつらいのである。

いったい何ができよう。

普通に普通の同僚らと同じように、こうして働き続けるのは、さすがにしんどい。

過密さが一時的、というのが二、三日まで、いやせめて一週間が限度らしいことが、今回わかったように思うのである。

矛盾しているが、つくづく、ひとりでよかったとも感じてしまうのである。


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