「隙 間」

2011年02月10日(木) 「緊縛」緊迫、切迫、誘爆

小川内初枝著「緊縛」

太宰治賞受賞作である。
タイトルをみて「そちらの趣味があったのか」と、誤解をしないでいただきたい。

三十代独身の美緒は、ふたりの妻帯者と不倫の関係を続けていた。

自分の社会や人間関係における存在があやふやであいまいであることを感じており、どこかで不安を抱えていた。

何かで自分を縛り付けておかなければ、あいまいであやふやなまま、かたちすら失ってしまいそうな不安。

ある日、心許せる友人が自ら命を断ってしまった。

自ら命を断つのは、思いの外気力を要する。
そんな気力すら自分にはない。
そこまでの自分すら、ない。

美緒は、何かに縛り付けられてたい自分に気が付く。

不倫相手に別れを切り出すが、切られないことを望み、なんの足しにもならないがそこに自分を縛り付けられる答えを男が返し、それに安心を覚える。

日常の、なんの生産性も持たないルーチンワークでさえ、自分を縛り付けておくことには欠かすことができない。

ただひたすらに、頑なに。

一方、同じく収録されている「見ていてあげる」では、ルーチンワークからすっぱりと手を離している。

父が事故で亡くなり、母とふたり暮しになった男と、男と付き合っている幼なじみの女の物語である。

父を亡くし、がむしゃらに働かねばならないのかと思えば、じつは家賃収入だけでしっかりと暮らしていける男は、仕事を辞め、引きこもり同然の暮らしをはじめる。

幼なじみの女が遊びにくるときだけが外と関わりを持っているようなもので、女の訪問を、母親はどうしようもない日々のなかのささやかな楽しみにしていた。

家賃の管理業務を不動産屋とふつうにやり取りし、しかしそれ以外はなにもしない。

女は、ふつうに仕事をし、同僚と付き合ったりもしていた。

しかし、そんなふつうはどこか居心地の悪さを感じている。

落ち着くのは、なにもしない幼なじみの男が、やがてゆっくりと、そのまま腐って堕ちてゆくのだろう過程を見ているときだけだと、気付く。

二者択一できるものではないが、いったいどちらの側に自分が属するのか。

何かに縛り付けられていないと不安になる。

あるがまま、ただなにも生み出さず、残さず、朽ちてゆくことすら厭わない。

太宰治賞を受賞する作品は、大概がやはり退廃的な姿を描くものが多い。

しかしそこには、はじめから無努力無気力があるのではないのである。

足掻き、圧し折れ、跳ね返され、やるせなく、観念する。

しかし観念してしまって、そこではいおしまい、ではないのである。

観念することを、ある意味、堪能するのである。

つまり、無駄を無駄にしないのである。

「この世のすべてに無駄などない」

ということにも通ずる、といえるのである。
これはもちろん、真正面からではない見方である。

真正面ではないから、それがよろしくない、ということもないのである。
必要なのは、

それが真正面ではない

と認識できることである。

さて。

当面の瀬戸際は、もはや開き直るしかないところまでやってきている。

とりあえず、三連休を駆け抜けるしかないのである。


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