「隙 間」

2011年01月31日(月) 「エスケイプ/アブセント」折れない新人は病んでゆくだけ

絲山秋子著「エスケイプ/アブセント」

革命運動に浸かりきった日々を過ごすうち、四十にもなっていた男は、ふとその妄執から解かれる。

いや。
そもそも本質から革命運動を求めていたのではないのかもしれない。

彼が求めていたのは「革命」という言葉がもつ響きそのもの。

響くということは、空っぽでなければ響くことはない。

そんな彼が京都で怪しげな神父に出会う。
バンジャミンと名乗る神父は、フランス人の血をひき顔立ちもそうなのだが、フランス語は話せない。

親交を深めるうち、バンジャミンは神父ではなかったのである。

神父のコスプレをしてるうちに、神父になってしまった。

形から、形だけさ。

そんな彼の自宅兼教会には、日曜日毎に近所の老人たちが説教を聞きに訪れ続ける。

信じられるのは、自分が信じる小さな信じる自由。

それをただ握り締めて、生きるだけ。

革命運動がどうのという話は、えてしてなにかしらの熱を孕んだものが多い。

しかし本作は、違う。

まったくの空ろな軽さなのである。

熱にうなされて、衝動で走るものもいるが、その熱風が巻き起こした気流に乗せられて、そこへ運び込まれてしまったものもいるはずである。

自らの熱でないぶん、覚めるきっかけを得がたい。
そうして、ずるずるといってしまうのである。

それでも、信じた羽根一枚を手放すことはせずに。

しかし、人生とはそれに似たものなのかもしれない。

他人からみればどうでもいいものを信じて生きる。

それはたとえば、夢や、現実や、乱暴だが「自分の大切なもの」

読後感として、どうも絲山節が、足りなかった。

もっと、ぶっきらぼうで。
もっと、刹那的で。
もっと、情けなくて。

ずっと、いとおしくて。



さて。

「折れない新人の育て方」

というのを、読んだのである。

社内で新人育成グループワークが開かれ、その第二回に向けての課題図書である。
もちろん、会社が数冊購入し、それを借りて読むのである。

わたしはこういった本を素直に読む人間ではない。

第一、この手の類いは目次こそが要約になっていることが多いはずである、とわたしは思うのである。

例え話や、裏付けの資料やら、結局は章題こそが結論であることを、ただ並べ立て、膨らませているだけなのである。

つまり、目次以外は大概が補足。

もちろん、補足から多面的な解釈が得られたりもする。
であるから斜め読む。

大体、身に覚えがあるものばかりである。
しかし、どうしても腑に落ちないのである。

「折れない」

と保護すること自体、「育て方」としてどうなのか。

「折れる」ときは、予想外のところで平気で折れてしまうものなのである。

大事なのは、「折れた」ときにどう立ち上がらせるか、である。

出版戦略上、そこまでを書いてしまうと次が出せないので仕方がないが、読み手は違う。

まして。

マニュアル人間隆盛の社会である。

取捨選択が、己だけでは通じない。

第三者的根拠が求められる。

簡単なのは、著作である。

書籍で世間に出回っている。
共通語にしやすい。

だから、間違いない。

そればかりに囚われる。

木を見て森を見失う。

それが、怖い。

エッセンスとわきまえて活用するなら、よいものである。

「だってコレに書いてあるじゃん」

それをふりかざすだけのものが、いるのである。

片腹痛い。

しかし、大事なことが、確かに書いてあった。

「自分の過去を振り返る」

どうかこれを読んだ方々が、取り違えることがないことを祈るのみ、である。


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