「隙 間」

2011年01月17日(月) 「妖怪アパートの優雅な日常 五」

香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 五」

待っていた。

「ああ。やっと、うまぁい食事にありつける」

妖怪アパートこと寿荘は、水道光熱費、地下に広大な温泉(露天)、賄い付きで家賃二万五千円也。

大家はじめ他の住人は、妖怪や世界各地の奇書珍本(主に妖しげな魔力や呪力がこめられたもの)を扱う古本屋や画家や詩人や魔術士見習い。

さらに近隣、季節の変わり目や節句毎には全国の各地からだったり、妖しやらが挨拶や遊びにやってくる。

彼ら持ってきた産地のありがたぁい地の物を、賄い婦である手首だけの幽霊「るり子」さんが、見事な料理にしてくれる。

写真やイラストがないのに、ただ素材と料理名が文字で書いてあるだけなのに、よだれが口にたまってくる。

そこに一人暮らし商業高校に通う夕士。

両親を事故で一遍に亡くし、叔父の家族に受け入れてもらい中学まで暮らしていたが、自立のために寮付きの商業高校に入学。

手に職をつけて目指すは県職員か堅実なサラリーマン。

そんな夕士が個性的かつ面妖な面々に囲まれて、成長して行く。

正直言って、嫌味なくこれほどまでに人生や考え方に対して「なるほど」なものが織り交ぜられているのは、珍しい。

大人と子ども、教師と生徒、師と弟、友と友、それらで気付かぬすれ違いに、ふと気付かせてくれたり、気を付けさせてくれたりするきっかけに、なっているのである。

固っ苦しくない。
軽快、軽妙。

妖怪大戦争や目からビームやドッタンバッタンなど、そんなのは、ない。

ちょっと変わった高校生の夕士が、普通に高校で通う日々のなかで出くわす日常の問題を、クラスメイトや自分たちの力でなんとかしよう、と成長して行く物語なのである。

出来ることと出来ないこと。
何が普通で何が特別か。
ひとりだけが特別なのではなく、ひとりずつが特別なのだということ。

すべてを与える優しさと与えず見守るだけの優しさと。

深い。

ふと思い出した話がある。

明石家さんまと大竹しのぶ元夫妻の話である。

しのぶさんの連れ子だった長男は体が弱く、発作をすぐに起こしては病院に運び込み、あれやこれや薬を与えて症状を落ち着かせるような状態だったらしい。

ある晩、発作を起こした長男をいつものように病院へと連絡しようとしたしのぶさんを、さんまさんが「俺に任せてくれ」と押し留めた。

責任はどうとでも取る。
だから、一晩だけ、俺とこいつと、一緒に闘わせてくれ。

戦わずに沢山の薬に頼るだけなんて、嫌だ。

ぜぇひぃ汗かき闘い続ける長男を、一晩ずっと、抱き締めてやりながら、共に闘い過ごしたらしい。

数式や物理や化学の公式やお決まりなことだから、とそれらに任せることは正しくもあり、必要である。

しかし。

ただそれらに任せるときに、手を離す、のではないことを忘れないでいたい。

学校のことだから、と学校に任せ、だから学校が悪い、だとか。

かといって、任せられないから学校の領域にドカドカと踏み込んで荒らしたりしてはいけない。

学校の領域とは、子どもたちの領域でもある。

すべてを与え、すべてを解決してやれば、そこで子どもは、自分たちで成長して行く大切な場面を、そのエゴな優しさのせいで奪われたまま大人になっていってしまう。

転んだ我が子を、いつまでも(大人になってまでも)親が抱き起こしてやり続けるだろうか。

自分で起き上がることを、教えてきたはずである。

すべてが過保護だからやめるべきだと言うのではない。

背を向ける、手を離す、でもなく、見守る優しさも必要だと。

そして。

子育てを間違えたかなぁ、とは思っても。
子育てを失敗した、とは、決して口にしないように。

間違いと失敗では、まったく意味が違うのである。

親子喧嘩の興奮した勢いで、つい口にしてしまいそうになるかもしれない。

失敗とはつまり、否定である。
しかし間違いは、違う。

似たような言葉でも、大きく違うのである。

このようなことを、ふと考えさせてくれるこの作品は、なかなか面白い。

しかし、どうしても今回、憤懣やるせないところがあるのである。

るり子さんの料理の場面が、少なすぎる。

腹三分くらいしかない。

あと七分、いや五分くらいを己で賄わなければならないのである。

それはどだい無理、というものである。


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