幸田露伴著「五重塔」
えい、ようやく読みよつたか、とお叱りを受けてしまいそうである。
我が家より歩いて五分と少し、谷中霊園は真ん中にあった、実在の塔。
天王寺・五重塔
をモデルに幸田露伴が描いた物語である。
腕は確かだが、世渡り上手とは無縁の「のっそり十兵衛」が、感応寺の五重塔建立の話を聞き、
是が非でも私にお申し付けください
と、願いでる。
それまでは、小さな作り物、どぶ板や桶やせめて馬小屋などの、さして腕をふるうものではない日々の小稼ぎにかまけ、冬の着物も綿がつぶれ、あて布継ぎばかり、金も名誉も執着なしと周囲から見下されていたのが、一転。
ここで腕ををふるわねば、生きてる甲斐なし、なんの意味があろうか。
じつは既に、十兵衛の師匠たる源太親方に、見積り見当用立てまで、寺は出してあったところであったのである。
果たして十兵衛は、五重塔を無事建てることができるのか。
とかく、「うむむ」と頷かされるところが多々ある。
これまでの人生のなかで、これほどのこだわり、思い込み、そして「誇り」を持ったものを、一度でもひとつでも、残したことがあるだろうか。
我が身がこの世界から消え去ってしまうほどに、すべてを注ぎ込んだものを。
十数年前、わたしはとある人から出された質問を、思い出した。
アーティスト(建築家)と エンジニア(設計士)と どちらを目指す?
「どっちがどっちで自分に向いてるか、目指そうと思うか、選択肢なんかないのか」
それは何年後かにはわかるようになってることを祈ってるよ。
今のわたしは、そのどちらを目指し、または歩いているのか。 もはやすでに、どちらでもない、さらに見知らぬ道のその脇道を、並走中なのかもしれない。
もとい。
のっそり十兵衛しかり、源太親方しかり、本作品の人物たちの姿は読んでいてとても気持ちよい。
落語の登場人物のように、義理人情もろく、江戸っ子らしく竹を割ったようにパキッとしている。
彼らにとって名前など記号にしか過ぎない。
熊さんでも八っつあんでも、呼ぶ際に区別がつけばいい。 ただ、そいつがどんなうっかりやスットコドッコイやおっちょこちょいか、その人間性こそが大事なだけ、なのである。
さらに役回りもはっきりしてある。
しかし、ここでは「名を残そう」と、そのことが肝心要のくさびにもなる。
金や名誉ではない。 ひたすら傲慢に、自分自身が満足するために。
この傲慢さは、様々な形であれ誰しもが持ち得ているものであり、また必要なものである。
すべてをかけ、何を残すか。
モデルとなった谷中五重塔は、現在基礎石のみが残っている状態である。
都内随一の高さ立派さを備えていたらしいが、なんと無理心中事件で焼失してしまったのである。
再建話も一時持ち上がっていたが、つい数年前その公的活動がかなうことなく終了を迎えてしまったらしい。
現在駐在所があるその隣の公園内に、跡地が示されている。 近くに寄った際は、足を運んでみるのもよいかもしれない。
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