「隙 間」

2010年11月23日(火) 「深き心の底より」

小川洋子著「深き心の底より」

作家小川洋子の、作家デビューから十年の間のエッセイ集である。

いったいどんな日々のなかから、あのような静鎰な世界を描いているのだろうか。

それがわかったような気がする。

いや、正確には日々は関係ないということが、わかった。

これにも語弊がある。

小説の世界を描くのはあくまで作家の内面にあるものであって、それは書いている本人ですら、特定できるものではない。

他の作家らはそうではないかもしれないが、答えありき、で描かれた世界は、魅了されることはない。

一行だって、一文字だって、それが正しいと思って書けたためしはない。

といっている。
まさに、その通りである。
だから、勢いに任せ、いやわたしの場合は「負かせ」て書いてゆくのがほとんどである。

原稿用紙のマスのひとつひとつを埋めてゆく作業が、小説を書いていることだと思える。

ワープロ原稿となっても、背景に原稿用紙の罫線を表示して書かなければ気持ちが悪いらしい。

笑われるかもしれないが、わたしも原稿用紙ではないにせよ、やはり手書きでないとどうにも実感がわかない。

もっぱら携帯電話でカチカチやっていることが多くなっている最近は、だから実はあまり気持ちがよくはないのである。

しかし、手軽さにはつい負けてしまうのである。

小説を書くということは、肉体労働のそれとは違うが、捻れたようなギシギシとした疲労をもたらす。

これならばフルマラソンで全身を痛め付けた方が、よっぽど清々しく、思考どころではない疲労の世界にひれ伏すことができる。

そして。

孤独に切り離されることが、小説を書くのには必要。

だと言っている。
小川洋子は妻であり母である。
しかし、だからこそ、である。

子どもが待つ、夫が待つ家に帰りたくない。

そう、小説をただ書き続けていたくなる。
食事も最低限、そうせざるを得なくなったときだけでいい。
恋人や家族の悲鳴が聞こえたところで、それはただ迷惑な騒音にしか過ぎない。

どうか割り込んでこないでくれ。

本心、である。
しかしその直後、その己の人でなしさ加減に、たちまち自己嫌悪にとらわれる。

だから、特に没入しているときは己に関わってくるものがないところで、書く。

まことに勝手なものなのである。

彼女がデビューした「海燕」の評で、なんと色川武大さんが、こう表していたそうである。

彼女の作品は、石をひとつひとつ積み重ねてゆくような作品である。

ひとつひとつを埋めて、積み重ねて、だけどそれはゼロの白紙の状態から不確かな、もろい継ぎ目のままで。

だからこそ余計に、慎重にひとつひとつを積み重ねてゆくしかないのである。

積んで、ふと振り返ったら崩れてしまっているかもしれない。

それと向き合い続けなけれはならないのである。

それだからこそ、小川洋子作品の「静鎰」さはそこから生み出されて、いや生まれているのかもしれない。

色川武大氏。

阿佐田哲也の名で「麻雀放浪記」を執筆し、また純文学でも高い評価を得た作家である。

ここでまた、ひとは繋がっているのである。

言葉は生き物である。

気を抜けば勝手気儘にあちこちへといってしまう。
それを言い聞かせてじっとさせながら、ひとつひとつを積み重ねてゆくしかないのである。

積み重ねたその先がどこに着くのか、そもそも崩されずにそこまで着けるのかわからない。

それでも。

やはりひとつひとつを埋めて積み重ねてゆくしかないのである。


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