「隙 間」

2010年11月13日(土) 「華麗なるアリバイ」

「華麗なるアリバイ」

をギンレイにて。
生誕百二十周年という、知らぬものはないミステリ作家アガサ・クリスティーの「ホロー荘の殺人」が原作。

原作でも登場し、アガサ作品に欠かせない名探偵ポワロを、本作では出さずに別の人物に任せている。

これはアガサ自身も、実は舞台化した際にそうしていたらしい。

わたしは片仮名の人物が複雑に入れ替わり立ち替わりすると、誰が誰だかわからなくなる。

それは学校の図書室で、怪人二十面相やアルセーヌ・ルパンを読んだ小学校を過ぎた頃から、現在に至っている。

しかし、栗本薫のグイン・サーガのように、長く、印象深く、そして愛すべき登場する人物らは、別である。

であるから、残念ながらアガサ作品はほとんど読んでいない。

しかしNHKドラマのポワロならば、姉と父が観ていたので知っている。

わたしがたまに「灰色の脳みそを」と口にするのは、その影響である。

もとい。

わたしがミステリをまったく避けて本を選んでいるのは、だいたいの作品が、そこに答え、或いは、結論が間違いなくあるからである。

揺らぎがない。
必ず犯人、動機、結果に向かって物語が収束する。

勿論、そこに辿り着かせるまでの筆者の技量に、とんでもない魅力や罠や牽引力があるならば、それは別である。

謎が解き明かされることこそがミステリの醍醐味である。

というのではなく。

謎は解かれぬまま。
解こうとする主役、またはそれらが最後まで無事生き残ったりしない。

つまり、謎は解くが答えには辿り着かない、しかも謎の解が正しいかもわからない、断定しない。

だからミステリとしては成り立っていない。

そんなミステリ作品はないだろうか。

ミステリ、いや推理小説、としよう。
その推理小説は、数学の問いである。
文芸、一般小説は、国語の問いである。

一般的に、答えはひとつしかない数学の解に、いかにして辿り着くかという快感は、ある。

その過程に独創性、意外性、そして真理が必要であるにせよ。

解がひとつしかないそれが、わたしの天の邪鬼気質にどうもそぐわないのである。

これはミステリだ推理小説だの話ではなくなるが。

わたしは建築学科卒であり、理工学部であった。
しかし数学は足を引っ張るほどの、落第点ギリギリのチョンチョン、をどうにか越えて単位をとってきたのである。

普通、一般教養といわれる初期の数学系の試験範囲は、何項から何項まで、の公式や解法を丸暗記してしまえば、楽に及第点はとれる程度の問題である。

わたしは、その片一方しか、やがて覚えなくなっていたのである。

それは公式ではなく、解法のほうである。

皆、身に覚えがあると思うが、かけ算とは足し算の応用である、ということである。

たかが一般教養の数学である。
短い範囲の公式らは、初期から延々、数珠つなぎに変化していった過程を切り出したそれぞれである。

それなら、最初の「一足す一が二」を覚えておけば、やがて「九九が八十一」に辿り着く。
その辿り着き方を覚えればいいだろう。

それだけで、試験に臨むのである。

他のひとらは記憶してきている公式を書き出し解法にそって解いてゆくところを、わたしは、一問ごとにその公式に辿り着くまでを、記憶してきた解法を辿り、たぶんこれでよいだろうという解をだしてゆくのである。

時間が、すぐに足りなくなる。
やがてそれも面倒くさくなり、他の履修で単位が足りるか、そちらを計算しだす。

なにせ、一般教養である。

とっつきやすそうなのを選び、選ばずにとばした問いは、そのままである。

したがって、解答欄は空白が目立つ。
奥ゆかしく、目立つことを苦手とするわたしは、とりあえず記号なり、過程で出てきた数式にのせてみた解を、埋め込んでゆくのである。

うむ。
なんだか、きちっと解答した気分に、なれた。

といった次第である。
よくもこれで進級できたものである。

もとい。

アガサ・クリスティー「ホロー荘の殺人」読者は、ポワロ不在の寂しさを覚えるかもしれないが、懐かしさを感じる出来具合ではあるので、観てみるのも悪くはないかもしれない。


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