井上荒野著「切羽へ」
著者の直木賞受賞作である。 「せっぱ」ではない、「きりは」である。
「切羽」とは、トンネルを掘っているその一番先のことであり、掘りきってしまえばなくなってしまう場所である。
「切羽詰まる」という言葉があるわけだが、これはそこからきている。
かつて炭鉱で栄えた島で、小学校の教師であるセイは夫と中睦まじく暮らしている。 同僚の奔放な月江と、憎まれ口を叩きながらも可愛がってくれる近所の老婆、無邪気な子どもたち。
そこに新任の男教師として石和がやってくる。
どこか違和感と距離感を持っている石和にセイは、惹かれてしまう。
夫を愛している。 何の問題もわだかまりも、傷一つありもしないのに。
月江が石和にちょっかいを出す。 セイをわざとからかうように。
切羽にある想いは、どこへ向かうのだろうか。
巻末の解説で、山田詠美さんが書いているのである。
「井上荒野は書くことと同じくらい、あるいはそれ以上に、書かないことをも大事にしているひと」
なるほど。 わたしが井上荒野作品に感じていたのは、まさにこういうことだったのかもしれない。
書けないものやことを書き表わし、ほほうっと嘆息させられるものもある。
書くことによってそこには書かれていないものやことに触れ、それが書いてあるも同然にし、なるほどなるほどと頷かされるものもある。
井上荒野はそれとも、ちと違う。
書かないのである。 触れないのである。
であるから、行間から汲み取るようなことではおさまらない。
どこにもない空白のページを頭に開き、そこに読み手が、自然と無意識に、あまつさえそうしていることすらまったく気付かないまま、埋めさせられてしまう。
事実や結果を並べたてられたところで、誰も感心や心動かされたりはしないのである。
動くためには、揺さぶられるためには、余白や空白がいちばん必要なのである。
しかもそれはだだっ広くあけられたスカスカの行間の類いではなく。
知らぬうちにページが最後まで読み進めてしまったかのように、自然に無意識に、あるものでなくてはならない。
想像する暇なく、次から次へと与えられ振り回され、という森見登美彦のような真逆のものもまた面白いが。
さて。 本作を読んでいて、ふと思ったことを。
しばらく人として男だ女だとしか考えてない、無味乾燥な日々を過ごしているが。
男として女をみたとき、やはり女は男にとって得体のしれない存在なのだと思うのである。
これはわたしという男の、一感想意見である。
男は、心が動けば体も伴って単純に、動く。 行きたいと思えば行こうとするし、思ったことや感情を、体のどこかで現してしまう。
落ち着かなくなったり。 ふてくされたり。 真逆の反応をしたり。 まったく無反応だったり。
しかし女は、それとは別次元で、違うように思うのである。
心と体と感情と、男のそれらは、人のなかで連結機だか何かでつながって納まっているのに対して、女のそれらは、つながっているのではなく、ただ集まって人のなかに納まっているかのようなのである。
男が上の空のとき、女はその空の先を当てることがままあるが、女の上の空を、男がその先を当てるのは至難のわざである。
それはときに、女が己の女自身に対してすら、わからないときがあるほど、なのである。
であるから男たちは次のゆうな言葉を生み出したのかもしれない。
「嫌よ嫌よも好きのうち」 「女心と秋の空」
万が一、不安にかられた男子諸兄がいたならば、安心してもらいたい。
その気持ちは、必ずどこかに現れ、相手に伝わるだろう。
さらにもまして、男がそう感じること自体があれば、まずは大丈夫だろう。
何もないほうが、もしやマズイのかもしれない。
しかし、これらの諸々がある相手がそこにあることもまた、至福のひとつなのである。
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