「隙 間」

2010年10月16日(土) 「のぼうの城」(上)(下)

和田竜著「のぼうの城」(上)(下)

本屋大賞第二位、そして直木賞候補ともなった歴史小説である。

豊臣秀吉が関東の北条家を攻め落とさんと石田三成を差し向ける。

現埼玉県行田市にある忍(おし)城の総大将・成田長親は、「でくのぼう」転じて「のぼう」様と呼ばれていた人物であった。

石田三成の最大の失敗と呼ばれた「水攻め」とはいえ、北条家恭順の支城で唯一落とされなかった忍城。

「のぼう様」こと長親を支える家臣・領民ら。

騙されたと思って、騙されてもらいたい作品である。

とにかく、のぼう様に最後の最後まで、だまくらかされてしまったような気持ちである。

二巻も読まさせておきながら、大した中身ではない。
いやしかし、それはつまり、それだけ物足りなさを覚えさせる魅力がある、ということである。

理想の上司だのなんだのと様々なタイプがあげられているが、「のぼう様」のようなタイプの上司は、ついぞみたことがない。

「のぼう様」のためなら。
あのひとがまともにひとりで何かを出来たのをみた覚えがない。
わしらがなんとかしてやらにゃあな。

刀槍馬、なにひとつできやしない。
そのくせ大男で、表情に乏しく、薄らぼうっとしているようにみえる。
農民らの田植えや畑仕事を手伝うのこそが楽しみで、しかし不器用なでくのぼうがゆえ、手伝われたらはた迷惑、と農民らにみてみぬ振りをされている。

それなのに。
慕われているのである。

戦国時代の戦で、バタバタと兵が斬られて死んでゆくのが、実は大嘘である、という話がある。

足軽やらの大半は農民らを駆り出したものである。
農民らは、大事な米やら年貢をおさめてもらうために必要不可欠な存在である。

だから死なれては困る。
相手のならばよいかといえば、そうではない。

勝った後、彼らはその地でおさめてもらわねばならない大事な働き手なのである。

血が流れるような合戦は、滅多になかった、という。

全ては大声や旗を振り相手を威嚇し、戦意を失わせたほうが勝ちで、それで戦は終わる。

そのためのいわばサクラとして数多く農民らや、サクラで出稼ぎに来るものらをかき集め、

あっちで「ワーワー」
そっちで「ワーワー」
負けるな「オーオー」
引っ込め「オーオー」

移動中にばったり出くわしたときに、慌ててチャンチャンバラバラと命惜しさに我が身を守るため刀や槍を振り回す。

という説があるのであった。

本当に切ったはったの戦いは、武士同士のときばかりであったらしい。

武士は何人でも勝手に死んでくれ。
わしらの負担が減ってくれるだけさあね。

農民らこそがじつは時の権力者。

信憑性のある話である。

ご存知だろうか。

ひとがひとを殺すために、命を命と認識する前に殺してしまうための洗脳ににた訓練を施されなければならない。

だから少年兵がなくならないのである。

命の概念を持ってしまった大人を洗脳するよりも、最初に持つ命の概念をそれにしてしまったほうが楽だからである。

そして大人は子供を無慈悲に躊躇なく殺すことはできない。

有効な手段なのである。

物騒な話になってしまった。

つまりこんな現実の話とは対極の、なんとも雲のように掴み所なく包み込んでしまう「のぼう様」なのである。

どうか共に騙されてみてもらいたい。


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