「隙 間」

2010年10月01日(金) タイム・スリップと、コレが、コレ

わたしは駅の階段で、時を止めた。

「タイム・ストップ」

というやつだ。
いつも通りに有楽町駅の山手線外回りのホームに上る階段の真ん中あたりだった。

上るひとよりも下りてくるひとのほうが圧倒的に多い。
だから自然に、壁ぎわに押しやられながら一列で上ってゆく。

手に持っていた傘が、まるで気紛れなイタズラのように、揺れてみせた。

あっ。

交差しようとしていたわたしの足に、音もなく、すっと滑り込んでいた。

両足を後ろに跳ね上げて、両手は一瞬、バンザイのかたちになりかける。

「とまれっ」

とまった!

周りの風景はとまったけど、宙に浮いていた自分自身の身体だけは、とまらない。

そりゃそうだ。
自分までとめてしまったら、時間をとめた意味がない。

水泳のバタフライのような動きで、目の前に迫ろうとしはじめた階段に、手を突き出す。
右手はカバンを掴んだままだから、拳の状態だった。

ああ、今日はパソコンを持ってきてなくてよかった。

解除。

コンマ何秒かのあいだの出来事だったから、誰も何も違和感を覚えないはずだ。

ただ、男がひとり階段でつまずいたと思ったら、四つ足の格好で勢いをつけて駆け上がった、という珍しいい光景を見たと思うだろう。

拳に斑点のように小さな赤がにじみはじめる。
電車に乗るのに、それはマズい。

ペロリと口をつけてなめると、舌先にめくれかけた皮が触れたので、前歯で挟んで、ブチッと噛み切る。

大したことはない。大豆ひと粒くらいの大きさだった。

皮一枚の浅さだったからか、透明のぬらぬらした膜が、赤が広がらないようにもう覆いだしていた。

その手で吊革を掴み、誰にもつかないように気をつけたわたしを乗せて、電車はガタゴト揺れている。

揺れて吊革を強く握るたびに、ピリピリと地肌が引きつった笑いを浮かべる。

周りのひとは、誰も何も知らない。



「どうしたの、それ」

お多福さんに、かさぶたの右拳をみていわれたのである。

「仕事のストレス発散でストリートファイト?」
「とんでもない」

わたしは即座に否定した。
ゴキブリすら見つけたら、どうかあっという間に見えないところに逃げて、

「ああ、叩き潰す隙すらなかった」

とあっぱれを送らせてもらってすむように願いながら、しばし金縛りになるわたしである。

「そんな虫も殺せないわたしを捕まえて、何をいうんですか」

右の頬をはたかれたら、左の頬を。

「拳で殴り返す?」
「違います」

左の頬を差し出す前に地べたに崩れ落ちて、ぼろぼろ大泣きして喚き散らします。

「弱っ」

「強い精神力」がないとできませんよ。
たしかに。でも、ヤダな。
わたしも、ヤです。

じゃ、ダメじゃんっ。

唖唖と笑う。

「駅の階段で」
「落ちたの?」
「つまずいたんです」
「落ちなかったの?」
「上り途中だったので」
「ちっ」

お多福さんが横を向く。

今、ちっ、とか聞こえたんですが、つばでもつっかえたんですか。
うんにゃ。
じゃ、わたしの気のせいですね。

「べつに」

まるでエリカ様のような切り返しである。
たじろぐわたしは、負けじと続ける。

最上段からの階段落ちだったら、よかったですか。

「うん」

「コレ(小指をたて)が、コレ(妊婦の仕草)ですから、って?」

うんうん。

ちゃーちゃらー、ちゃちゃちゃ♪
ちゃーらーらーら、らんらんらん♪

ここは蒲田でなく、品川ですよ。
いいじゃん、近いんだから。
てか、コレ(妊婦)なコレ(小指をたてる)以前の問題ですから。

階段落ち、で、蒲田行進曲と通じる世代に、完敗、いや乾杯、である。


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