「隙 間」

2010年09月03日(金) 「乳と卵」と寅次郎の旅立つ、夏

徒然なるままに、と入力しようとして、「つれづ」のところで文字変換候補が現れ、日常の用語ではないがそれでもやはり古典や古文の教科書やらにのって学生の頃に一度は目にした耳にした言葉ならではの威厳というか尊厳というか、感心。

兼好なるお方のお言葉を借りて、これからの、不健康にほどよく苦味がブレンドされつくしたもろもろの、そのブレンド比をかいつまんで披露しようなど、身の程知らずの親知らずが露知らず。

疼く痛みは捨ておけず、捨ておけないから「えいや」と駄々こね、振り回す子どものおもちゃ。その行く末は、それはそれはサトリもさとれぬ傍若無人。

さて傍若無人なわたし、古墳氏と大分県を両脇に携え鬼に金棒、一石二鳥で投げた石は我が頭上、急転直下し一撃必中。

やるからには責任持ってわたしがみっちりきっちり、やらせていただきますやらねば気がすまないのですとやる気ほとばしる古墳氏の、それを満たしてあげねばならず、ならばと任せてそうろう。

かたや不慣れながら、やり方をそれなりに独自に紐解き、思いの外少しの量では手が空き口が開きギョロリと目を見開き、他にありませんかと大分県。

そうなれば本来わたしがやろう、それくらいやらねば立つ瀬がなくなる、いや背は高くないのでこれ以上なくなるとしたらそれは早くも老化が渡り廊下を駆け抜けるがごとく爽快、そうかい。

わたしのする分を譲っても些末に仕事はまだあるわけで、しかし些末はわたしの前に開いた穴や溝を埋めるには微小過ぎ、サラサラはらはらと散り落つるのみ。

埋まらぬ穴の暗闇にしばし身を寄せ沈思するも深海魚の気持ちにもなれず。「どんな按配ですか?」と古墳氏や大分県の進度をうかがいにたびたび浮上。

ちょうちんアンコウの提灯は、本物の提灯のように灯りがゆらゆら灯っているわけではない、とどこかで見たか聞いたか読んだかした記憶がともに浮上し、その記憶だけが波間にプカプカ漂う。

一方わたしは、別の波にさらわれて違う海溝へとまた沈下。

生物の源は海から生まれたならば、これはダーウィンの回帰をたどり、たどりたどったその先はきっとプランクトンよりもっと微小な、穴も割れ目も埋めて塞ぐには幾億ものわたしがひしめき押し合いへし合いしても、足りることがないのです。

そんな足りることがない思考を繰り返すことにも、やがて割り算の余りを、つまりは小数点なる無慈悲な非情な、そして毅然とした境目を前にして切り上げて、繰り上げ繰り上げようやく人並みの整数なわたしになった気になるのです。

整数とは、整った感を感じさせない見事な謙虚さを極めている存在のように思えて、その謙虚さにあやかろうとわたしはせめて古墳氏と大分県には謙虚に接しようとしてみるのです。

ちょっとだけこうしておいてくれますか、ちょっとだけでいいんですか、いえ出来ればちょっとではなくこれやあれやそれも。

任せてください、と頼もしくパソコンに向かう彼らの横顔を見てわたしはほっとし、わたしに向かうよりパソコンに向かう方が圧倒的に多いのは仕事がパソコンを使うのだから当たり前なのだけど。

だから当たり前で仕方がないその背中を意味なくパシンとひと叩きして、「いてっ」とこぼれた反射の、だから偽りも策も計算もない純粋な心と体からの言葉をすくいとり、「なん、俺に居てほしいのん?」とピタリと足を止めてみせる。

「いてもいいけど、仕事せんでええんですか」
「せなあかんけど、どうしても居てほしいっつうんなら、しゃあないやん」
「どうしてもなんて、誰がいったんですか」
「しいて言うなら、俺、やね」
「俺は思ってないんで、結構です」

なんやつれないなあ、と去ってゆく自分の背中は哀愁があるか愛しうかなぞとひとりごち。

とまあこんな感じなのでありました。

そして夜毎の眠たさは甚大でこれも変わらずの感じ。

徒然なるままにこれらを連れ々々、日々これ好日也か、えっちらおっちらゆくだけなのです。

さて。

川上未映子著「乳と卵」

かつてひととき話題になった芥川賞受賞作品であり作家である。

今年「ヘヴン」にて芸術撰奨文部科学大臣新人賞を獲得した気鋭の作家である。

本作の受賞インタビューだかなんだったかで、云っていた。

「言葉の持つリズムをこそ、優先させて書きました」

姉の巻子と姉の娘の緑子のふたりが、東京に暮らす妹のわたしのとこに泊りにくる。

目的は巻子の豊胸手術。
ホステスをしながら女手ひとつで緑子を育てる巻子は、緑子とあまりうまくいってなかった。

ある日を境に、緑子はピタリと口を閉ざし、ノートに筆談、という会話しかしなくなっていた。それは母子の間だけでなく誰とでも、である。

病ではない、自らの意志であった。

豊胸手術に熱心になる母。
生理がくること、女になりやがて母になり、母である巻子と同じになることを拒もうとする緑子。

それをただそばで目の前にし、何もできずに見て過ごして、そして大阪に帰ってゆく姉と姪を見送る夏の花火のような三日間。

この作品。

なめてかからず、ちらと頭の数行だけでもよいので読み噛ってみてもらいたい。

なるほど、これはまさに著者の求め表した言葉の音が捕えて放してくれなくなる。

癖になる。

実はこの作品、一昨日買い置いていた文庫を読み切ってしまったので、さて土曜に三省堂へ行くまで我慢するか、と仕事帰りの途中、いや矢先に、待ち受けていたのである。

ビルの足元にある書店が、いつもは目もくれず駅へと向かうのだが、やはり読むものがない不安に焦り、立ち寄ってみたのである。

「乳と卵」

おおっ、と手に取る。
私事ながら、誕生日はもう、目を瞑って拒もうとしても、目の前であった。

生まれた日にまさに読むべし、として眼前に現れたに違いない。

川上から川下へ、流るるように大海へ注ぐ。

わたしにとっての金原ひとみのような川上未映子であるように、追い掛けてみたく思うのである。

気付けば、寅次郎が四度目の旅の支度を整えている。

上がりカマチの丸めた背中に、わたしは親指を立てて送り出す。


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