「隙 間」

2010年08月24日(火) 「水晶万年筆」と余白

吉田篤弘著「水晶万年筆」

わたしにとってこの著者は、「つむじ風食堂の夜」「それからはスープのことばかり考えて暮らした」等の作品から、なかなか捨ておけない作家となっているのである。

人々がすれ違う十字路が詰め込まれた街の、六編の物語。

どこか舌足らずで、ついつい「え、なんだって?」と道に迷ってべそをかいている子どもに膝を折り、口元に耳を近付けてやさしく話を聞こうとしたくなるような、そんな不思議な魅力を持つ作家である。

しかし今回、ちと雰囲気が違う。

元は朝日新聞社の「小説トリッパー」にて掲載されていた物語たちである。

あとがきにあるのだが、東京の路地(十字路)がある街を歩いて、骨格となる風景を集めたらしい。

例えば築地、白山、根津、尾久、千住などなど、らしい。

うむ、これまたわたしと縁深い街ばかりである。

白山は以前の勤め先の小石川に、自転車または歩いて通り抜けていた街であり。
千住は菩提寺、家作があった街であり、根津に関しては暮らしてる街である。

読み終えてからあとがきにて知らされたのである。

あとに書いてあるからあとがきなのだが、さきに知らせて欲しいものである。

なんだか、騙されたようである。

十字路というところから、何故だか最初に、月島の辺りをすっかり想像し、そのつもりで終わりまでいってしまったのである。

月島は築地の川(河口?)向こうの街である。

「もんじゃ焼き」の二大聖地のひとつである。

惜しいところで、ひょいとかわされてしまった。

まるで、ダルビッシュの編み出した魔球「ワンシーム」を放られたみたいなものである。

胸元に、ふわりと浮き上がり、ケケケ、とバットに空を切らすか、ゴツンと根っこに尻から当たって凡打させられるかのようである。

しかし、いくら厚くはないといえ、正味九十分ほどで心地よく読み切らせるとは、やはりよい作品なのである。



しばし停電。



先日久しぶりに七三の消息を訪ねてみたのである。

同じと正反対と、そしてやはり違ったものを持っているものである。

訪ねたといってもそれは便宜上の表現であり、実際に訪ねたりしたわけではない。

何せわたしは今、坊主頭に毛が伸びたぐらいの頭である。

だから何だと言われれば、何も言い返せないのである。

なにせわたしはB型の乙女座である。
生まれはドラえもんと同じ日にち、とくれば、夢想家となるのは必然の理である。

夢想家が妄想、妄走すると、いけない。

わかったような気になるのをわかっていないのだとたがを締めるのに大変なのである。

思い上がりにほかならない。
ひととはそんなに易きものではない。

大分県が加わり、古墳氏とトリオになったのである。

切れ端の小耳に挟んである話を継ぎ合わせて、おそらくこうだろうことを、実際だいたいはそうだったりするのだがそのことを頭に置いたまま話をしようとすると、ちっとも話を進めることができなくなってしまうのである。

十八さんが、苦虫を噛み潰す。

だから言っているだろう。
交通整理をしなければ大渋滞が起きるのは当然だって。
お前はたまに、全部信号の電源切って、良心に任せようとしやがる。

車を止めずに、歩行者天国、のつもりである。

「それで、このプランをですね」

指示を出そうとして、はたと言葉が詰まり、思考がとまる。

これは変更がきて、すぐに総入れ替えになるから。

変更案も昨日と一昨日とはたまた今朝と、けんけんガクガクの紛糾状態みたいだったし、決まりっこない。

だからはまぐりさんもシュウゾウさんも、さらには津市も、こちらに触れようとしたないし。

てか、右往左往で余裕なんかないし。

どうした。

しれっと、変更の話なんか尾首にも出さず、どこかでワサッとやるためにだんまりを決め込んで、ヘラヘラと、いけしゃあしゃあと、振り回してた面の皮はどこへいった。

「こう、し「といて」ください」

し「て」ください、と言い切らない。
言い切られないと、言われたほうも躊躇する。迷う。及び腰になる。

モチベーションが、落ちる。

致命傷を、招きかねないのである。

指示する者は、迷いを見せるな。

親が子を叱るとき、「悪いことだと「思う」から、ダメなことだと「思う」よ?」と叱ることになっていないのと同じである。

そんな簡単なことをする余白が、わたしの中になくなっているのである。

言葉どころか文字までもが、そっぽを向かれてしまっているようである。

変更を入れ替える前に、頭の中を入れ換えて、すっきりさせねばならない。

まずは腹拵えから、である。


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