「隙 間」

2010年08月07日(土) 「ジャージの二人」と共感

長嶋有著「ジャージの二人」

「サイドカーに犬」にて文学界新人賞、同年、「猛スピードで母は」にて芥川賞を受賞した作者である。

「サイドカー〜」は映画化され、たしか竹内結子が主演されていたと思う。

えい、それよりも本作品の話である。

読後、不思議な気持ちにさせられてしまう。

納得と、
不安と、
苛立ちと、
焦りと。

父と息子が、別荘である山荘に、泊りにゆく。

そこでの普段着が、近所の学校のジャージ各種、なのである。

この親子。
並々ならぬ事情を、それぞれ抱えている。

それからの現実逃避を兼ねての、ゆるゆるスローライフ・ストーリー。

読んでいるこっちが、すっかり憧れてしまう、などとは簡単に許さない緊張の糸が、きちんと張られている。

親子揃って、夫婦仲が、うまくいっていないのである。

父は二度の離婚、三度目の妻と、どうもあまりよい雰囲気ではないらしい。

息子は妻が、会社の上司だかと不倫中であり、そのことを夫である息子は知っており、しかし知らぬ気付かぬふりをし続けている。

男同士、似た者同士、ゆるゆるスローライフの最中、もちろんその答えなり出口なり入口なりを、みつけてゆく物語である。

不思議なのは、登場人物の誰かに、すうっと、同調させられてしまうのである。

父であったり、息子であったり、息子の妻であったり、父の娘であったり。

夫婦と親子と家族と男と女と、すべてひとつの帯で繋がっているのだ。

とは、決していえないだろうことは、結婚も、子どももおらぬとはいえ、そうと言い切ることは強いことである、というように思うくらいの年かさをくっているつもりである。

例えば。

夢を追い掛ける立場から、夢を追い掛けるものを見守る、支える立場になる。

つまり、親となる、ということが、単純にそうである。

守るべき、支えるべき子がなければ、自らのものやことこそが、すべてである。

燃えるような、一世一代の恋を、自分ではない他人にしている。

妻がそうだとして、夫は何をどうして、それをどうこうすることができるのだろうか。

また。

自分が逆の立場だとしたら、何をどうして、それをどうこうすることができるのだろうか。

どちらの言い分も、いや気持ちも、わからなくはないのである。

しかし残念なことに、わたし自身は恋も愛も、自らの感覚としてよりも、物語の中におけるものとしてしか感情を通過する以外にはなく。

だからこそ、やたら共感だのをできてしまうのかもしれない。

ふむ。
しばらくは我が作品内でその妄想力、共感、直感を注ぐのみ、で十分である。

男性には、読んでみるとなかなか面白いと思える作品である。

さて。

とうとう、「自分忘れの旅」出立間近である。

まずは手荷物の準備であるが、なにをさしおいても忘れてはならぬ一式がある。

ノートパソコン及びアダプター等の一式である。

これは毎日、アダプターを除いてだが持ち歩いているので、鞄をバッグに放り込むだけで済むのである。

しかし、これがかさばるのである。

ええい。
着替えは洗濯だ。

これで手荷物の準備はあらかたすむ。
だから、本当の出立間際に支度すればよいであろう。

問題は、留守の宅である。

主婦の方は、ああ、と共感してもらえればありがたい。

食材の処理である。

赤札堂の安売りの度に買いだめするので、とかく傷むまでに使いきればよい、と、たいへんおおらかな具合なのである。

冷蔵庫とにらめっこ、の開始である。

このナスは一週間までは保つまい。
キャベツは、芯を抜いて、保ってくれるであろう。
人参、頑張れ。
ピーマンは、いかん。
納豆は、保存食である、ということにしよう。

今週はとかく、使いきる、そして木曜のゴミの日以降は、生ゴミを出さぬ、極力少量におさめる、に執心したのである。

よし、それもなんとか目処をつけた。

ピークの続く夜、それでも野菜やら刻んで食事を作らねばならぬ辛さは、主婦の方々は普通に毎日やっていることと、奮い立たす。

主婦は、やはり偉大である。

残るは、身支度である。

床屋に、行っトコヤ。

……この不始末。
懺悔も兼ねて、ざっくり切ってきたのである。


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