重松清著「青い鳥」
中学校の非常勤教師であちこちの学校をまわる村内先生。
吃音で、しゃべるのが苦手なのに、国語の教師なのである。
だだだだだっ、大事な、こっこっこここ、としかかかかっ、しししし、ゃべらないかかかから。
先生は、必要な、ひとりぼっちの生徒のところに、やってくる。
ただ、「そばにいる」ために。
先生は、中年の冴えないおっさんで、太っていて、頭は薄うくなりかけていて、強いわけでもなく、何もできない。
何かを解決してくれたり、助けて出してくれたり。
それも、できない。
いや。
先生はそれができないからこそ、ひとりぼっちから、救ってくれる。
同じ吃音で、思ったことを誰にも話せずにいる女子生徒。
父親の自殺で、自分と母親のことを考えずに勝手に、放り出すように死んでしまった父親を許せずにいた男子生徒。
交通事故で加害者になってしまった父親が、許されることなく遺族に毎年謝罪にゆく姿を見続け、歯痒く、切なく、苛立たしく、だけど無力な加害者の娘である女子生徒。
虐待を受け続け、施設に預けられ、家族も愛情も知らずに育った男子生徒が、同じ虐待を受けてきた女子と施設で出会い、味方なんかいない社会で、ふたりで、ふたりきりで、家族になって。 先生と数年ぶりに再会する元教え子の青年。
八人のひとりぼっちのそばにいた村内先生の、お話。
「きよしこ」に続いて、作者自身もそうである吃音を抱えた者が主人公の物語てある。
これはまた、「流星ワゴン」や「なぎさの媚薬」シリーズ、ひいては重松作品によくみられる、無力の弱さと力強さ、が胸を腹の奥底を、熱いもので波立たせる。
朝の満員電車の吊革にしがみつき、昼飯をつっつきながら箸を震える手で握りしめ、帰りの電車で降りる駅を通過しそうになりながら、一編一編を、噛みしめて、飲み込む。
見えないところの見えない何かを、見えない何かで、ぎゅうっと鷲掴みにする。
鷲掴んで、ぎゅうっと絞って、指の隙間からポタリとこぼれ落ちる雫は、苦くて、しょっぱくて、ほんのり甘い。
まるで、人生の鼻水、のようである。
ずずう、と、今宵もわたしは鼻をすすりあげるのである。
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