| 2010年06月15日(火) |
「瞬(またたき)」とアンテナ |
河原れん著「瞬」
湊かなえ原作の映画「告白」が、空前絶後の話題作となっている。
かの名作「嫌われ松子〜」の監督がメガホンをとられた、というだけでもう、わたしは劇場に裸足で駆けつけたい気持ちに駆られたのである。
しかしこれだけ話題になってしまうと、わたしのようなものはたたらを踏んでしまうのである。
きっとこの後、ギンレイにかけられそうな淡い期待と予想が、頭をよぎるのである。
さて。
邦画がもはや洋画などよりも深く、強く、広く何かを与えてくれるものとなってはや数年、いや十年くらいが経つ。
しかしテレビドラマからの映画作品がその主な立役者である、と少々切ない時分もあるが、無論それだけではないのである。
シネコンの台頭、席巻で劇場数も選択肢も増え、底支えしてきた単館ミニシアターが閉館など、たちゆかなくなってきてしまったりという話もあるが、それでも、まだまだ映画は生み出され、観られ、ひとびとをあたため続けてくれているのである。
そんなわたしは、今回、なんともほろ苦い思いを、させられてしまったのである。
それが、本作品である。
安易に映画化という言葉に踊らされぬよう、これまで慎重に、選び、避け、伺っていたはずであったのに、どうにもこの時期のわたしは、アンテナやレーダーや探知機の類いが、すっかり役立たずになってしまっているようである。
恋人の淳一とバイクで事故にあい、自分だけ助かってしまった泉美。 泉美は事故のときの記憶を思い出すことができず、それを取り戻そう、と心の痛みをこらえつつ歩き出す。 失われた淳一との最期の記憶は、切なく苦しいほどのふたりの真実だった。
らしい。
のである。
おそらく、岡田将生、北川景子、大塚寧々らによって、銀幕の中でなら、そう思えるのであろう。
いかんせん、アンテナの類いが鈍っているわたしには、原作である本作に、それを感じ取ることあたわなかったのである。 帰り道に不忍池の向こうに見えるスカイツリーが完成し、見事電波が高く広く強く伝わるようになったら、そう感じるようになれるやもしれぬ。
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