| 2010年06月13日(日) |
「フローズン・リバー」 |
「フローズン・リバー」
をギンレイにて。
アメリカ、カナダの国境地帯にある先住民の保留地区。 夫がクリスマス前だというのに自分とふたりの子どもを残して蒸発してしまったレイと、我が子を亡くした夫の母に奪われてしまった先住民のライラ。
ふたりのシングルマザーが、家族を守るため、我が子を取り戻すために、国境の凍った川を密航者を渡し報酬をもらう、という犯罪に手を染めてしまう。
母であるひとが観たのなら、激しく共感するところが多々あるのだろう。
ただ、守りたい。
その純粋な思いのためには、お金が要る。 それが現実。
それがもはや最優先である現実に生きるひとは、たしかにいるのである。
その弱さと強さは、神々しさとは違った何かが、ある。
わたしは、まだ己のためだけ、しかない。 無論、犯罪などに手を出したりは、ない。
たかが、来月の「RENT」が払えないから仕事にとびつき、翌々月にまとめてもらえるはずの給料を例外でひと月分を先に貰えないか、と頼んだり。 その程度の地べたしか、手をついたことがないのである。
自分のためではない誰かのために。
家族になるということは、自分の分身だということ。 だから自分が我慢するように、分身も我慢してくれると思いがちになってしまう。 それは男に多い考え方である。
らしい。 であるから、家族のためとは自分自身のため、ということにもなる、といえなくもない。
綺麗事の内ですむにこしたことはないが、それですまないときに、選べるだろうか。
そして、作品の最後における彼女の選択は、おそらくただひとりの母として、というよりも、母という人間として、の揺るぎないやさしさからなのかもしれない。
母は弱く強く、そして、こわくやさしいもの、である。
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