朝倉かすみ著「夫婦一年生」
わたしが文庫の次作を待っていた著者である。 小説現代新人賞を「肝、焼ける」で獲得し、同作の読み心地のよさ、快活さ、潔さが、すっかりわたしを虜にしようとしていたのである。
まだ、虜にはならずに、いたつもりだった。 しかし、気になっていた時点で、既に囚われていたも同然なのである。
本作は、青葉と朔郎というふたりの男女の、いや、夫婦の、新婚の一年の物語である。
いや。
思い出である。
新婚のときは、ひと月、いや一週間前の出来事すら、
「記憶」ではなく、 「思い出」となってしまうもの
なのである。
恋人のときと新婚のときと、同じ「前に一緒に観た映画」の話をするのにも、恋人のときは「記憶」に近いものであり、新婚のときは「あのとき」とつけるのがぴったりな「思い出」へと居住まいが正されている。
それだけ、新しい出来事が次々とふたりの年輪となって薄く厚く折り重なってゆくのである。
そんな新婚のふたりだが、とても素晴らしい。
ふたりの会話の掛け合いが、まるで演じているような言葉とリズムで、愉快に、心地良く、交わされてゆく。
朔郎が北海道への転勤を機に、青葉に結婚を申し込む。 仕事を辞めて、見知らぬ土地でひとりきり、専業主婦となった青葉。
「試される地、北海道」で手腕を試されることになった朔郎。
甘えてばっかりで、ごめん。 俺も、ごめん。
青葉は何も甘えたことをしていたわけではない。
ひとりきりの昼間を話し相手もなく過ごし、やっと仕事から帰ってきた朔郎にも、一日をどう過ごしたか、何があったか、と待ってましたと話したがるのは、疲れている夫によろしくないと控え。
朔郎は、そんなひとりきりを過ごさせてしまっている間、青葉がどうやって、何を感じているか心配をして、「今日は何があった」と呼び水を差したり。
なかなかよくできたものだったりするのである。
しかし。
家計を預かるということは、いわば、家族という会社の「共同経営者」を指名されたようなものだ。 業績売上向上はなくとも、破綻させてはならない。
と意気込む青葉。
ぜんたい料理なんかやったことがない私は、まずはきっちり、手本通り「ゆるがせなく」やらなくてはならない。
と計量カップにスプーンに、少々とはいかほどか、と真面目な青葉。
朔郎の好物の「きんぴらごぼう」に、「美味しいが、パンチがない」となかなか及第点をもらえず、しかし何度もリベンジに挑む青葉。
朔郎の両親が初めて泊まりにくる、と、「じぶんち」なのに「ひとんち」みたいに考えてしまったり、「嫁として夫の両親に、いっちょうかましてやろう」と、だけど不発に終わってしまったり。
そんな青葉のことを、朔郎は風邪で会社を休み、熱に寝込んだときに、初めて読み手に語る。
俺はこの家に、線で繋げるくらいにしか足跡をつけていない。 だけど青葉は、隅々まで、線でなど繋げないくらい、この家に足跡をつけつづけている。
夕方に目が覚めると、隣に青葉がマスクをして布団に潜っている。 風邪をうつしたかと心配し、「看病なら俺にも任せろ」と声をかける。
「見守る」意味の看病だけじゃなく、「生活する」意味の看病を、
「協力を、求む」
さらに青葉は、
「少々、緊急事態が起こって」
深く息を吐いて続ける。
小さくて、とても重大な緊急事態。
新婚を経てきた夫婦の方々は、読んでみて必ず、必ずや共感共鳴して、また新しい「思い出」を織ってゆく仕合わせを感じられること間違い無し、な作品である。
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