「隙 間」

2010年05月01日(土) 「半分の月がのぼる空」「ジョニー・マッド・ドッグ」「アリス・イン・ワンダーランド」「scope」

今日は一日、映画サービスデーである。

まずは朝の渋谷に降り立つ。
めぼしい作品と上映時間を書き連ねたメモは、胸ポケットにねじ込んである。

外せない作品はふたつ。

そのふたつのすき間をうまく埋めて繋げられそうな作品をリストアップしてあるのだが、どうにもひとりで、どうしても、と思うのが少ないのである。

外せないふたつだけで十分だろうとは尤もな意見だが、この機会である。
千円で観られるならば、できるだけ観たいという心情には、逆らえないのである。

まずは軽く、

「半分の月がのぼる空」

大泉洋ほか若手俳優、女優が主演の作品である。

クレジットで知ったのだが、原作はライトノベル同名小説であった。

なるほど、これはなかなか素直な、純愛映画である。

終盤になって、おやや、ほう、そうだったのか、という演出があり、胸がシクンとこさせられてしまう。

互いに重病で入院している高校生が出会い、支え合い、友達からやがて違う思いへと変わっていることに気づく。

今どきの高校生らしさが薄いと感じるのだが、女の子は入院・転院の繰り返しで、学校に通ったことがない、のである。

ほかにも。

それはご覧いただいて、なるほど、と納得してもらうことにしよう。

力要らず、緊張無用で、ジンとできる作品である。

おっと、はや次の作品の上映時間である。
粛々と座席に向かおう。



二作品目は、

「ジョニー・マッド・ドッグ」

である。

この作品は、言葉が悪いが、胸糞が悪くなるくらい重たい作品、である。

相次ぐ内戦で混乱するアフリカ。
反政府軍を名乗り、虐殺略奪レイプ好き放題の少年兵部隊があった。

彼らのリーダー、ジョニー・マッド・ドッグ。
ジョニーもまた大将である大人(青年)ネヴァー・ダイの命令に忠実に従っていた。

その全ては理不尽である。

十歳から銃を持ち、殺し続けてきた少年たち。

無邪気に、純粋に、狂気的に、無差別に殺すために殺し続ける。

政府軍を、やがて大統領をブチ殺すために、である。

そんな狂気な現実の日常を、この作品は描いているのである。

メッセージなど、何も、ない。

これは作り話ではない。
紛れもない現実の出来事だ。

ということを突きつけるだけ、なのである。

言葉の悪い表現を用いたのは、

撮影地をアフリカの内戦がおさまったばかりの地で、
少年兵役の少年たちを、実際の少年兵だった少年たちで、

撮影した作品だという、

「徹底的リアル主義」

と銘打たれているところである。

本作品は、知らずとも損することはない。
そして、知ったからと得することもない。

しかし。

観たからと損することも、決してない作品である。

とかく、重たい。



三作品目は、

「アリス・イン・ワンダーランド」

である。
いわずもがな、ジョニー・デップ、アン・ハサウェイら主演、ティム・バートン監督の話題作である。

わたしはどうしても、テリー・ギリアム監督作品「ローズ・イン・タイドランド」とタイトルが混乱してしまうのである。

テリー・ギリアムが描いた「アリスの世界」というのが、「ローズ〜」であったらしいので、それもやむを得ないこととしているのである。

もとい。

本作品。
男のひとり観は、少々ツラいものがあった。

劇場が整理番号制でなく、開演前に早い者勝ちで並ぶため、一時間前にいってもすでに非常階段の踊場になっている始末。やがてすぐに、三階分ほど下階に、ビーズの首飾りのように連なるひとの頭がうかがえる。

あははっ。

マッド・ハッターが嬉々としてわたしのとなりから覗き込んでいる。

面白かったかい?

グイと顔を近付け、クリクリとわたしを見つめている。

チェシャ猫が右や左に現れながら、それを冷やかす。

「ほとんど」が、面白かった。

いや。
全体面白かった。

感動や素晴らしさを、本作品に求める方はいないだろうと思うので、これは最良の感想である。

軽快で軽妙で愉快で爽快、である。

アリスもよいが、白の女王にもまた、惹かれてしまう。

子どもたちと観ても十分楽しめる作品である。



さあ、最後の締め、の作品である。

「scope」

性犯罪の再発抑止を目的に、あらたに「scope法」が定められた。

性犯罪者にはGPSチップを体内に施術し、現在地、そして個人情報(罪状、服役年数他)の公開、そして薬物治療による去勢が施されるのである。

新薬のホルモン剤投与によって、異性と接触しただけで強烈な副作用に襲われる。

つまりそれらは、更正し、まともに社会復帰をしようにも、それを妨害することとなるのである。

海外では既に、刑期を終え出所した性犯罪服役者にGPS携帯を義務付けし、また付近住民への情報公開・告知は行われているのである。

本作品は、いわゆる人権侵害と性犯罪者の再犯率とを、ある程度、そうある程度誇張したに過ぎない現実的な社会を描いているのである。

しかし物語は、それでも純愛を下敷きにしている。

「scope法」対象者である別所は、社会に拒まれ、とある離島で偽名を語り、ようやく小さな工場で働きはじめることができた。

しかし、それはやがて周囲の明るみにさらされてしまう。

同じ工場で働く凪は、耳が聴こえず、しゃべることができない障害をかかえていたが、別所に心惹かれ、そしてふたりは気持ちを通わせ合ってゆく。

しかし凪は、工場の跡取り息子との結婚が決められていたのである。

跡取り息子の嫉妬。
別所の、凪への戸惑い。

やがてふたりは。

という物語とは別に、性犯罪者に対する社会的見解、扱い等の問題を訴えている。

性犯罪者の再犯率は、ゆうに五割を越えているといわれていたりもするのである。

日本での裁判員制度導入の際、かなりの物議をかもしたことを忘れてはいないことと思う。

性犯罪は、被害者がさらし者とならざるを得ない状況が多く、さらされずとも、告発自体が精神的苦痛を伴い、だから立件自体も少ない状況であったりする。

犯罪時によるものよりも、以後、公判中、に被害者自らが命を断ってしまうことも多いのである。

その遺族は、決して加害者を許しはしないだろう。

生涯の枷として「scope法」が本作品では採り入れられているのである。

では。

だからといって、それで遺族は加害者を許すことができるだろうか。

否。

許すことも、受け入れることも、出来やしないのである。

許さないこと、恨むことによって、奪われた傷を、己を支え続けてきたのである。

それはもはや、被害者のためだけに、そうしているのではない。

奪われた、残された己のために、というものが多分に、ある。

本作品の工場長は、かつて飲酒運転でひとを殺めてしまった。
別所とは、罪状こそ違えど、他人事とは思えず、別所を受け入れて接してくれる。

罪を憎んで
ひとを憎まず

現社会ではどうであろう。

飲酒運転もやがて本作品の性犯罪と等しいものになりうる。

再犯率は性犯罪に比べものにならないだろう。

これは極論として両罪を並立に扱ってみただけである。

犯罪と加害者と被害者の、当事者にしか実際はわからないことばかりではある。

しかしそれに、我々はややもすると裁く側として関わる可能性があるのである。



難しいことはここまでにして、実は知らずに公開初日ということで舞台挨拶が、あったのである。

わたしは最前列の一人分だけ空いていた席に潜り込んでいたので、小さな会場はまさに、手が届くところに監督はじめ出演者らがいたのである。

わたしの目の前に、凪役の女優さんが。

演技もとても素晴らしく、そして。

美しい女性

であった。

演技力といっては、「空気人形」の主演女優(ペ・ドゥナ?)と同じくらい、に思えた。

これは、わたしが惚れかけた目でみていた分を差し引いても、日本アカデミーは狙えるやもしれない。

別所役の俳優さんも、やや浅野忠信風のなかなかスマートな方で、やはり演技力も素晴らしかった。

残念ながらの単館・ミニシアターでの公開だが、楽しみにしていた甲斐がある作品であった。


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