太宰治著「パンドラの箱」
本編は表題作と「正義と微笑」の二編が収められている。
それぞれ書簡形式、日記形式でつづられており、どちらも十代の若き悩める青少年の、嘆きや叫び、卑屈と高慢、複雑と単純、それらが散りばめられているのである。
とりわけ、表題作である「パンドラの箱」は、友人への書簡という表現に、うむうむ、と読まされてしまう。
「健康道場」と名うたれた結核療養所が舞台である。
ひばり、と呼び名をつけられた青年が、看護や身の回りの世話をしてくれるいわゆる看護師の女性ふたり、マア坊と竹さん、のふたりに対する様々な考察や出来事を、友人に書いて聞かせるのである。
この作品は映画化され、かの女流作家、川上未映子が、どちらか、おそらくマア坊を、演じているはずである。
とかく、ふたりそれぞれの描写が、ひばりの筆策によって、いいようにあしらわれてしまう。
男子に限らずままあることだが、いわゆる「聖子ちゃん派」か「中森明菜派」か、といったようなことを、クラスの派閥をはっきりせんがために、ふたりを知らぬ同級生にそれぞれを語り紹介しようとしたのを、皆さんも記憶にあられるかと思う。
好きだが、我がものをまたひとの我がものとされるのに、わずかばかりの抵抗や反骨があり、かたや「ぶりっこ」、またかたや「不良娘」、と少々乱暴な形容詞で紹介するものである。
わたしは幼少のころから、もはや今の気質ができあがっていたのであろう、片方をかわいらしいと周りが口にするほど、涼しげで物静かで冷たげな中森明菜をよしとしていたのである。
もとい。
さような筆者の心情の吐露が、なかなか面白く書かれているのである。
書簡のやり取り、という形式であれば、三島由紀夫の「レター教室」が、軽妙で、人物たちそれぞれの書簡を通して様々な人格思考考察を面白く書かれている。
が。
本作は、ひばりというひとりの、若き青少年の書簡のみの、吐露告白である。
そうか、そうか。
と読みながら、青少年の心情とおなじ歩調で、あちらこちらへとさせられてしまうのである。
一方向からだからこそ、しかも若き悩める青少年の視点だからこそ、の人物像の想像の面白さが、ある。
「陽の当たる方へと蔓をのばそうとするのではない。 のばした方に、陽が当たるものなのだ」
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