| 2010年02月23日(火) |
「万寿子さんの庭」と一葉の言葉 |
黒野伸一著「万寿子さんの庭」
小学館の「第一回きらら文学賞」を受賞しデビューした作家の作品である。
二十歳の斜視の京子と、七十八歳のひとり暮らしの万寿子さんとの、女の友情の、はかなくもせつない物語である。
ふたりの出会いは、万寿子さんの京子への意地悪ともみえるいたずらから、はじまる。
越してきた京子に、無視、にらみ、罵詈雑言、そしてなんと、人前でのスカートめくり、からはじまるのである。
なにさ「寄り目」、「ブス」
斜視にコンプレックスがある京子は、日頃から人と目を合わすことを避け、正面から人と会話することも少なく控えめに暮らしてきた。
なによ「ババア」のくせに。
老人だから、との気遣いや傲慢な目線からではなく、ひとりの女とひとりの女、として、ふたりは「友だち」となってつきあってゆく。
京子のせっかくの恋のチャンスを、ちょちょいとじゃまをして、三日間も(!)口をきかないけんかをしたり。
いっしょにいった買い物で買ったかわいらしいワンピースを貸しあったり。
万寿子さんがいかに強がりで、けらけらと笑い、毒づいたりしていても、痴呆にはあらがえない。
自分が知らない自分が、万寿子さんの一日の中に虫食いのように、いる。
京子は会社を休み、万寿子さんの介護を、する。
プライドが高く、年寄りくさいから嫌だといっていた自分の昔話を、聞かせてよと京子がねだり、話しだしたのがきっかけだったんじゃないだろうか。
空襲で亡くした妹の名で京子を呼ぶことが増えていったのである。
そんなときは決まって、瞳が深い色になり、万寿子さんのものではない目になる。
まったくの他人ではなく、身内でもない、「友だち」に、オムツを変えられたりする。
万寿子さんじゃない深い瞳の色のときはよいが、はたと万寿子さんに戻るときがある。
しかし、万寿子さんはそんなとき、万寿子さんじゃないふりをし続けるしかないのである。
わかるのよ。気づいたら、ぽっかり記憶が抜けてて、誰かに体を乗っ取られているような感じ。 自分がその間、何をしてたのかわからないの。
「わたしでいられるのも、もう、わずかなんだよ。わたしでなくなったら、それはもう死んだと同じ。だから」
大島紬の着物にびしっと身を包んだ万寿子さんは、そういって京子に遺書を書く。
面と向かっては、きっと素直に伝えられない万寿子さんの気持ち。
なかなか、よい作品であった。
「きらら」といえば、わたしもかつて一度だけ、しかも欄外にちょこっとだけだが、名を載せてもらったことがあった。
その際、本人確認のために連絡をいただき、少しだが話を聞かせてもらったのである。
いやあ、たしか「なんたらかんたら云々」て一文、よかったですよ。
手元になくとも、印象に残る。 それは難しい言い回しなどではなく、シンプルだったり、素直だったり、する。
そのような一文が、必要なのである。
はたとそんなことを、思い出したのである。
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