「隙 間」

2010年02月17日(水) 見直し直す

まだ中途ではあるが、ざっと、これまでのところを、打ち出してみたのである。

四百字でおよそ百五十枚ほどであり、もちろん、それをそのまま自宅にてガサガサと印刷するのではない。

社内でこっそり、印刷機を拝借したのである。
業務用機であるから、一度で両面印刷ができる。
それを使わない手はない。

一枚につき四十行四十列くらいにし、それでも三十枚くらいの枚数だったのだが、さすが業務用なだけあって、両面印刷に手間もかからず、早い。

人目に触れぬよう迅速に回収し、これまた備品であるクリップでとめ、クリヤファイルに挟む。

そして。

とりあえず、ざっと読む。

誤字や体裁やらは、さておいて、全体的な姿を眺めてみることをこそ、優先すべきである。

どんな美人でも、いちいち、小指の爪の形が薄いだとか、えくぼが左の頬にしかできないだとか、細部から検証していてはキリがない。

微や細ではなく、全体が、日常における最も重要なものなのである。

もとい。

正味なはなし、全文を通して、こうして眺めるのは、今回において初めてであった。

まず、最初のあたりを読んでのち、はああ、と顔を覆ってしまったのである。

作品の、まずは大前提、としてあったものが、先に進むにつれ、粉雪のごとく溶け落ちてゆき、現在にいたっては、五月雨の集まった最上川のごとく押し流され、跡形もないのである。

誤表現など以外のところで、引っかかるところがない。

内容が、ではなく、全体の文体として、のど越しもなく流れていってしまっているのである。

蕎麦は、つゆはちょい付けで、のど越しで味わう。

という江戸っ子にしてみれば、「なんでい、なんも食った気がしねえな」となってしまう。

味がしっかりとあれば、そんなことを心配する必要がないのである。

だが。

そうではないのだから、せめてなにか、のどを何かが確かに通っている、というものが欲しいのである。

まるで、茹ですぎてしまったうどんのように、なりかけてしまっている。

山本屋の味噌煮込みうどん、とまではゆかないが、シンのような、硬さというか、引っかかる少し角張ったものがあるように、しなければならない。

つるんとした杏仁豆腐は、これではなく。
とろりとおも甘い練乳も、これではなく。

灰汁を。

掬ったお玉に、頑としてこびりつき手間をかけさす、そんな灰汁のあるスウプを。

煮詰め直そうと、思ったのである。

舞い落ちる泡雪を、白い息で溶かしながら。


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