「ごめん。今ドコまできてる?」
地下鉄から地上に出て、目的地に向かって歩き出したときに、姉からの留守電が届いた。
「教えた時間が実は出棺の時間だったの。 それも十分くらい早まりそうで。 ごめん、間に合いそう? タクシーでもつかまえて、急いできて」
お別れができなくなっちゃう、とのしぼんで消えてしまいそうな姉の声は置いといて、わたしはただちにあたりを見回した。
タクシーの姿など、一台も見かけなかったし見当たらない。
このまま歩いても十分弱、時間の十五分前に着くようにきているから、ギリギリ、間に合う、はず。
母方の祖母が、亡くなった。
母がすでに他界しているので、それ以降は縁遠くなっていた。
しかし母が健在のころに祖母が倒れて入院し、そのまま施設代わりに病院に入ってからも、姉が、他界した母の代わりにたびたびお見舞いに顔を出し続けていた。
痴呆がはじまり、お見舞いや世話をしてくれているひとが誰かわかっているのかはたからはあやしく見えても、受け答えはしっかりしていた、らしい。
最後にわたしが祖母に会ったのは、母が他界したとき、それを祖母に、やはり伝えておくべきだろう、と家族三人でお見舞いにいったときだった。
八年ほど前。
あらあらまあ。
と驚いた顔に見えたのは、わたしのひいき、だったのかもしれない。
もちろん、何年もずっと会っていなかったのだから名前など出てくるはずがない。
ああそう。 ああ、そう。
と、突然訪れたわたしたちに相づちを繰り返すだけだった。
結局、母が他界したことは、祖母が理解できるのかわからないし、すぐに「疲れてきたらしいから」との看護士の中断もあり、伝えられなかった。
「機会をみて伝えてみるから」
との週一日交代で見舞いにきている伯母叔父にお願いすることにして、わたしたちは退散していた。
日曜日。 わたしは、ちくちくと靴下の穴を繕っていた。 わたしの裁縫箱は、小学校の家庭科で購入した「裁縫セット」を、そのままこの年齢まで使い続けている。
祖母がまだまだ健在で、月に一回、我が家に訪れていたころのある日。
わたしの裁縫セットを借りて何やら繕ったあと、針山のフェルト生地の表面に、まち針、縫い針(短)、縫い針(長)、と整理して分けて刺しておくように小さく書いてあるのを目を細めて、
「これじゃ、読みづらい」
と、やおらマジックで書き書きと書き直してしまった。
目の前でぱちくりと唖然とした顔のわたし(当時は祖母がお小遣いをくれるのが楽しみで外にすぐに遊びにはゆかずに、しばらく待っていた)をみて、
「あらあら、余計なことをしてからに、て顔をして」
おほほ、と笑っていた。
男子だから授業以外で裁縫セットなんかめったに使わず、だから、きれいな状態のものはきれいなまま、でいたかった。
それを、フェルトを針先で毛羽立ててプリントされた文字やらを曖昧にし、マジックでしっかりと仕切り線をひかれてしまったのである。
「べつにいいけどぉ」
お小遣いのために、くちびるを強くとんがらせて、ぼそっとつぶやき、すこしふてくされるだけでわたしは我慢した。
ああそうか。 たしかわたしが小学五年生のころだったかもしれない。
そのときの祖母の顔が、何故か頭に浮かんだ。
月曜日の夕方。 姉から、
「おばあちゃんが、亡くなったって」
混乱気味の連絡があった。 式の日取りがわかり次第、すぐに連絡をくれるように頼んだ。
そして今日。
花に囲まれた祖母の顔は、日曜日にわたしに笑ったときの顔と、まったく同じだった。
悲しくなるべきはずなのに、不謹慎だと慎み、粛々と最期の別れを涙で告げるべきはずなのに、なぜか、うれしかった。
「最近、こないねえ」
見舞いに母がこなくなって、祖母がそう言っていたらしい。
今日、伯母の口から聞いた。
はっきりと伝えてなかったらしいが、祖母はおそらく、薄々感じ取っていたんじゃないか。
これも伯母の話。
「うちにこないか、て言っても、おばあちゃんはことわった」
父の話。
「そうしてたら、母さんと一緒に暮らしてたら」
どうだったのだろう。
うちにはばあちゃんがいて、朝は浪曲だか詩吟だかを吟じたりするのを、
「もう。朝からうるさくてやんなっちゃうぜ」
とか、煙たがってみたりしたのかもしれない。
交差点の信号がにじんで点滅しても、慌て走ったりしない。
「また余計なことしてからに、て顔をして」
おほほ、と笑う祖母を、フェルト地の針山をみるたびに思い出すのだから。
もういい加減、すっかり、ふてくされてもくちびるをとんがらせたりしない大人、ですからね。
たまに、ちくちくとマジックの線引き通りに針を針山に戻しながら、つぶやいてみる。
「あなたじゃなく、お嫁さんに戻してもらうようになるのはいつになるの?」
ばあちゃん。 それは言わない約束、てことで……。
|