| 2009年11月21日(土) |
「ガマの油」と大門を叩く |
「ガマの油」
をギンレイにて。 役所広司初監督作品にして、主演もつとめている。
内容は、なかなかなんでもない、しかし、飽きずに観られる作品である。
役所広司と小林聡美の役者力によるもの、のように思うのが、肝なところである。
しかし、最後のあれは、いただけない。 あれではまるで「大霊界」ではないか。
忘れてはならないのが、名優・益岡徹の存在感である。
さて。
気づけば連休である。
連休なので、テレビを買い換えることにした。
21型ブラウン管テレビが、どうにも部屋のなかで、主以上の存在感をもって部屋を従えていたのである。
前の部屋はワンルームで今より狭く、そこでは部屋の片隅にすっぽりと、あくまでも部屋の一部として、殊勝にも主を待っていたのであった。
それが今は、部屋の隅にすっぽりと収めることができず、壁のまん中に、まさに部屋の顔たる顔をして、でんと構えるようになっていたのである。
わがもの顔、とはまさにこのことを言うのだろう。
増長などはなはだ勘違いもいいところである。 己の力ではないのだ。
しかし、いくら出る杭を打ったとしても、引っ込むものではない。
画面の上のほう、人間でいう額のあたりに、しわのような線が出るようになっていた。 以前はしばらくするとその線は消えていたのだが、近頃ではいつまでもなかなか消えなかったりしていた。
人間とおなじである。
そろそろ隠居の頃合いか、とおもんぱかり、引っ越しを期に買い換えを考えてはいたのである。
しかし、さきだつものがない。
画面は映らないわけではなく、べつに支障はない。
真友が以前きたときに好意でわたしのにつけてくれた淀橋のポイントは、部屋のガステーブルにつぎ込ませてもらって、ほとんどない。
であるから、淀橋をのぞいても、あれやこれやといろいろ陳列されている液晶の顔たちに、
「ひやかしなら、用はない」
と冷たい目で一瞥され、まるで相手にしてもらえないような、居心地の悪さを感じるばかりであった。
ではあるが、パソコンの画面から彼らを眺めるに関しては、彼らの一瞥の冷たい目も限度があり、こちらは寝そべってぐりぐり眺める余裕もある。
正直、どれがどうよいのか選別する知識など持ち合わせておらず、そんな自信のなさが、彼らの一瞥をさらに冷たく、厳しく感じさせたりしていたのやもしれない。
淀橋の画面に、安売りの紹介があったのである。
予算のギリギリ、ちょいと超えたくらいのものであった。
予算というのは、普通の方が液晶を買うときのように、十万弱、などという、わたしにとっては部屋よりも高額なものなどではない。
わたしにとって、三万を超えれば十分に高額であり、それは服や靴やパソコン、そして買う予定もつもりもまだまだ毛頭ないが自動車までも、種別や用途すべてをひっくるめて、皆等しく、おなじものさしで計っているのである。
予算をちょいと超えてはいるが、それは、陳列棚からわたしに向かって白目を向けるまではしていなかった顔のなかのひとつ、であった。
せいぜい、鼻白む、くらいのもので、いや、いうなれば、
「金でおとこの良し悪しを決めたりなんかするもんか。 その卑屈さがわっちの興を冷めさせるんだよ。 それがとれたらまたおいで。わっちはここであんたを待っててやるからさあ」
と、大門を背中を叩いて送り返されるかのようなもの、であったのである。
柳のとこで、振り返り。
吉原の柳ではないが、不忍池の柳のあたりで、振り返ったのである。
するとちょうど、前の部屋の礼金と敷金の残りが、振り込まれたのである。
果たして、意を決して門の扉を、ネズミを操ってカチリと叩いたのである。
奥ゆかしく、壁際にしゃなりともたれるようにして、わたしと向き合う姿は、なんだかまだ慣れず、気恥ずかしいこころもちになるが、悪いものではないのである。
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