吉田篤弘著「百鼠」
「つむじ風食堂の夜」「それからはスープのことばかり考えて暮らした」の著者である。
題名から、妖怪や怪談、ひいてはミステリかと類推さるるかもしれないが、まったくもって違う。
なんともやさしい気持ちで読める物語である。
表題作を含めた三編の物語を収めた作品だが、その三編はなんと、三つの物語のそれぞれの序章であり、それだけを収めてしまったのだというのである。
それでも、なかなか、よい。
著者の描く人物たちは皆、指でつつくとやわらかいに違いない、とわかるほどに、やわらかくやさしく描かれているのである。
そして表題作である「百鼠」は、小説を書く立場からみてとても興味深い物語であった。
鼠といえども、それは我々が知る鼠のことではない。 「朗読鼠」と呼ばれ、小説を書こうとするときにその物語を作者に読み聞かせる者のことであり、神とも天使とも悪魔とも呼ばれることがあるという、天に存在する者のことである。
面白いのが、彼らはあくまでも「三人称で書かれる小説」に限定されており、彼らにとって「一人称」は禁句に近い、不要な、排除されたものとされているのである。
地上の作家が「三人称の小説」を書き始め、彼に物語を読み聞かせはじめるのだが、ふとある日に、「人称改めが起こった」と急報が入り、百鼠の彼は、「読み聞かせ方に、一人称を想起させるものがあったに違いない」と謹慎に処せられてしまうのである。
彼自身も、じつは一人称に惹かれるところがあり、一人称のヤミ小説をこっそり手に入れて読んでいたのである。
一人称の小説も、じつは三人称の世界。 自分が目覚める光景を描こうとすると、ベッドに寝ている自分の姿を描写する。 一人称ならば、目を開けて見えたもの、つまり決してベッドに寝ている自分の姿など見えるはずがないのに、それを描くということは。
つまり、一人称とは三人称が包括しているものではないか。
と思うのである。
しかし、そう簡単なことではない、と諭されるのであるが、いったいどう諭されるのかは、本作を読んでみてもらいたい。
わたしはおそらく、本作でいう「三人称の朗読鼠」には、お目にかかったことがない。
是非一度、お目にかかりたいものである。
三人称が「鼠」ならば、一人称は気ままで勝手な「猫」だろうか。
気まま過ぎて、ほとほと困ったものである。
百ケン先生の「ノラや」ではないが、縄張りをこえると帰ってこられぬくせに、ふらりとどこかへ行ってしまう。
ノラや。 いまいったいどこにいる。 無事か。 飢えてはいないか。 怪我させられてはいないか。 風が庭の木を揺らすたび、帰ってきたかと姿を探してしまう。 三カ月過ぎた今日も、新聞の尋ね人欄に広告を出した。 ああ、ノラや。 お前はいったいどこにいる。
といった次第である。
わたしも嘆いてみよう。
ああ、わたしのノラや……。
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