わたしは彼女の鍵を手に入れた。
空室になっていた彼女のふところは、広くて深く、なによりも、無垢だった。
わたしははやるこころをおさえた。
手には汗がじっとりとにじんで、なんだか恥ずべきことをしているような気持ちになった。 恥ずべきことなど何ひとつしてはいないし、正当な手段をもってこの鍵を手に入れたのだった。
無駄な金を遣った、と非難もされた。
しかしそれは、わたしにとっては無駄ではなく、生きてゆくために必要なものだった。
糖尿病患者にはインシュリンが必要であり、心臓病患者にはニトログリセリンが必要であるように、わたしには彼女が必要だった。
「ずっと、一生、そうやって暮らしてゆくつもりか」
と罵られた。
いつか別れなければならない日がくるのを覚悟した上で、わたしは選んだのだった。
そんな胸のささくれを抱えたままで彼女を前にすると、そのあまりにも無垢な様がわたしのささくれを剥いでしまわなければ気が済まない、と非難の目で見つめているような気持ちにさせられた。
わたしはささくれのある人差し指を、隠すように手のひらに握り込んだ。
長くいると、無垢な世界に飲み込まれ、そこから出てゆけなくなってしまうように思えて、わたしはそうなる前に逃げ出した。
彼女がそれに紛れて外にでてしまい、その無垢さが世俗の垢に汚されてしまうのが怖かった。 そしてその無垢さがわたしに恐れを感じさせていたという矛盾もまた、そこにあるのはわかっていた。
しかし、扉の鍵穴に鍵をさし、ガチャンと鍵が締まる音がすると、至福で満たされてゆくのがわかった。
そこにはもう、恐れの姿はどこにもなかった。
夕飯の買い物帰りの主婦とすれ違った。
「あら、お豆腐買い忘れちゃったわ」
きびすを返したその背中は、小さくて丸く、世俗に色褪せていた。
色褪せていることが、安らぎとぬくもりを与えてくれるものなのだということを、わたしはぼんやりと眺めていた。
わたしは安らぎやぬくもりよりも、恐れや寂寥感に惹かれていた。
ひりひりするようななかにいるときこそ、自分はここにいる、と常に、容易に実感できるからだ。
わたしは冷たくなった鍵を、ポケットのなかで握り締めた。
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