| 2009年09月30日(水) |
「歌行灯・高野聖」と「?」 |
泉鏡花著「歌行灯・高野聖」
挫折せず、一応、終わりまで読んだ。 読みはしたが、頭にほとんど入っていない気がして、いたく心もとない気持ちである。
挫折はせぬが、脱線転覆は何度となく、 存分にしてしまった。 つまり、幾度となく、意識がとんだということである。
これは決して、感動して、感極まってのことではない。
泉鏡花の文は音がよい。
とか、どこかで聞いたか見たかしたのだが、わたしには合わなかったらしい。
やはり、もっと妖しのでてくる作品を選んで読めばよかったと、襟を正す心意気でいっぱいである。
さて、一方でそんな神経衰弱になっていたものだから、思うがままにできることの清々しさや、軽快さや、奔放さを、己で書くほうで実感することができるというものである。
しかし、そこでまた、はたと立ち止まってしまいそうになったのである。
わたしはなるべく、「……」や、「!」や、「?」などを使わないよう、気をつけている。
それは「作品」に限ってのことであり、ここやそこのことは範疇ではないことを先に申しておこう。
使ってはならないわけではない。
しかし、それらはとても「便利」なものであり、便利なものだからわたしは際限なく使ってしまうのである。
とくに「?」をつければ疑問であったり、確認であったり、すぐに判別がつく。
「?」をつけずに、同じ文でその使い分けができるようであらねばならない。
それはもちろん前後の文の脈絡によるのだが、なかなか難しいのである。
ついつい、使いたくなってしまうのである。 使いたいが使わぬようにしたい。
「いたい」と「したい」の葛藤である。
なかなか決着がつかず、けっきょく持ち越しとなってしまい、止まってしまうのである。
つまらない意地ってやつ?
いかん。 油断して思わず使ってしまった。
つまらない意地というやつである。
べつに、いいんじゃない?
まただ。
べつに、よいのかもしれない。
しかし「よい」としたままでは、際限なく使ってしまい、「?」などに頼りきった文しか書けなくなってしまうのは目に見えているのである。
それは、避けなければならない。
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