| 2009年09月13日(日) |
「走れメロス」にあっぱれ |
太宰治著「走れメロス」(新潮文庫)
ダス・ゲマイネ、満願、富嶽百景、女生徒、駆込み訴え、走れメロス、東京八景、帰去来、故郷の九編を収録。
「富嶽百景」の、
富士には月見草がよく似合う――。
という名文句。 先の豊川悦司が太宰治に扮したテレビドラマでみかけてから、頭に残響していたのである。
駄目さ加減もここまでくると、愛しさすら覚えはじめてしまうのかもしれない。
そんなところが、後半の東京八景、帰去来、故郷にふんだんに感じられるのである。
恐るべし太宰治、である。
さて、彼の正確な性格や心情をわたしがうかがい知ることなぞできるはずもないが、表題作の「走れメロス」に込められたものを、わたしなりに感じたところをのべてみたい。
同作は、教科書にも載せられる有名作である。
人間の信頼と友情の美しさを物語るものである。
もしわたしが太宰なら、これはおおいなる皮肉を込めた茶番劇に、素晴らしき道徳をお仕着せたものとして、書き出した作品である、といえよう。
あっぱれ。
である。
異論ある方は、今一度、立ち読みでも構わないので、本作を読み返してもらいたい。
ことのすべては、メロスが勝手に種を蒔き、親友を巻き込み、涙の幕を下ろしているだけの話なのである。
メロスが勝手に事情も知らぬ親友を人質に出し、己の勝手な信条を証明しようとしなければ、なにもことはなくすんだのである。
つまり、己の信ずることを他人に知らしめるがために、無関係の他人の命を無許可に勝手に引き合いに出して、ああ俺はなんて正しいのだろう、と悦に入る、という物語なのである。
メロスのような輩は、わたしは絶交するであろう。
なんて自分本位な。 他人を巻き込むな。
太宰にとって、己の力のみではまともに暮らせない、という思いがあったのだろう。
わたしは自分本位で、はなはだわたしを助けてくれる方々に迷惑をかけてまわり、感謝こそすれ恩を仇で返すようなことばかりしてきました。
駄目な男なのです。
駄目とわかっていても、けっきょく皆さんなしでは生きてはゆけず、生きてゆくために皆さんとの繋がりである絆の形を、このような形でしか表せないのです。
これらの仇なすと見られる一連の行為は、恩を返すために繋がっていたいと、つねづね思っているからなのです。
しかし、またわたしは、皆さんの前から逃げ出そう、とすることでしょう。
逃げ出しても、いつかは飼い犬が野良を夢見て家を出て、うまくゆかずにひもじそうな顔をしてしばらくして家に帰ってくるようにして、皆さんの恩情にすがろうとすることでしょう。
こうすることが、わたしなりの恩返しのひとつなのです。
といったところのように思えるのである。
そういった意味で、「走れメロス」は、太宰治そのものの作品であるようにわたしには思えるのである。
たとえば。
わたしがもし、三日間のうちに二百五十枚の小説を書けなければ、友人の利き手の指を全てへし折ってくれ。
と勝手に約束し、わけもわからず拘束されて、今か今かもう駄目だ、というときにわたしが原稿片手にほうほうの体で現れ、わたしは約束を守ったぞ、と誇らしげにうたったら、どうであろう?
そんな物語である。
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