「隙 間」

2009年08月28日(金) 「斜陽」としゃようでござる

太宰治著「斜陽」

没落貴族の一家が落ちてゆく日々の様をその娘を通して描いた云々、というあらすじの紹介文を目にしたことがあった。

その通り。

その通り、なのだが、どうも違う。
悲壮感やら夢窓感やら、そのような重たさやまだるっこしさやらが、ない。

つつみくらまされたかのような感すらある。

こうせよ。
それはならぬ。
駄目なものは駄目なのだ。

といった類いの、強く感ずる主張や思想が、太宰治の作品には、ない。

ように思える。

そこに流行作家となった彼の苦しみがあるのだろうが、それをいっては、物書きの万人が、当てはまるのであり、彼のみが例外、特別であったというわけではない。

ただ。

著者自身の人生の色が、勝手にページに染み出しているだけなのかもしれない。

本著に関していえば、三十路前で乙女(もしくは元お嬢様)でいる女の日々の呟き、日記のようなものであり、歌劇、ミュージカルのように、るるらららと、寂しさを音律で隠して幕がおりるまでステージを運んでゆくのである。

暗くなぞ、ない。



さて。

「ありがとうっ。助かったよぉ。おかげで無事に、アップできたぁ」

シュウゾウ氏の今朝のひと声、である。
午前中に最後のチェックがあるかもしれない、との話をして昨夜はあがったのである。

チェックされても、チェックが入るような図面は書いていないはずである。

それは、綿密に正しく整ったのを書いた、という意味ではない。

粗が見えてしまわぬよう、シュウゾウ氏と悩みながら、すっきりさっぱりとした図面を書いた、という意味である。

「今日は、のんびりしててよ。なんかやってるフリをしながら、さ」

ということで。

今日は、まるっきり「虫干し」の日であった。

思考は、まったく働かない。

小説の中身だとか、考えたり書いてればよかろう、というわけにもゆかない。

なにせ、思考はまったく働かないのである。

考えたものではなく、浮かんだものをメモ書きに書き留める。

わたしの場合、考えても、それはろくでもないものにしかならないのである。

どこかでおそらく、ちゃあんと考えておいてくれているだろうことを、期待するのみである。


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